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光の結ぶ像から自由になるために

 光は眼球の表面を通り、眼球を通り、網膜にまで射し込む。そのときに人は像を認識すると言われている。何かを見ようとしなくても、、目を開けているだけで光は網膜に射し込んできて、見えてしまう。あるいは、注意を凝らし、何かに焦点を合わすことによって、見ようとしたものしか見えなくなることもある。

 

「目を閉じて…それから、今自分の中に思い浮かぶことを拾ってみてください。」

 

 カウンセリングという自分の仕事柄、こんな奇妙なことを人に言うことが多い。目を開けたままだと、目の前にあるものが気になって、自分の思っていることや感じていることを捉えるのはなかなか難しい。

 

 例えば、悩みを打ち明ける人は分かってもらおうと必死になる。必死になれば、その人の考えの焦点は“この人は分かってくれるのか”になる。分かってもらえたと思ったからといって何なのか。それはそのときだけの慰めに過ぎず、問題を自ら解決していくしなやかさには結びつかない。

 

 聞いている僕としては、僕がわかっていると思われることよりも、その人が自分の悩み、考えに対して、より深い集中をしてもらいたい。僕が理解者であると思われることは、長期的に見ればあまり良いことではない。短期的に見れば、安心感を得てもらえるかもしれないが、それは長い目で見れば「この人なら分かってくれる」という依存を作り出すことになる。

 

目を閉じることで見えるもの

 焦点を固定した視線は、考えの硬直を生む。自分が見ようと思ったものしか見えなくなり、それ以外のものに思いを馳せる余裕を失う。目を閉じると、対象を失い、焦点への集中は少しずつ綻んでくる。慣れていないと、どこに焦点を当てれば良いか不安になるかもしれない。どこに当てる必要もない。ただぼんやりとどこにも焦点を当てずにいると、何かが思い浮かび始める。

 

 思い浮かぶものは、自分の考えや、情景、思い出、ある人のことや、ある形や色など、より抽象的なイメージであることもある。その思い浮かんだものは、映画のように自分の気持ちを引き出してくれる。

 

 僕の場合は湖がよく思い浮かぶ。水面が波立っている様子が思い浮かび、その落ち着かない水面が僕のネガティブな気持ちを表現しているように感じられる。湖の様子とともに自分の気持ちを感じていると、水面が静かになっていき、透き通った湖の中にあるものが徐々に見え始めてくる。

 

 人によって、あるいはそのときによって、思い浮かぶことは違う。思い浮かぶことに意識を向けていると、怒り、焦り、緊張、自分のことを分かってほしいという気持ち…そういうものがあることを少しずつ自覚し始める。気持ちを自覚し始めると、また何か別のことが思い浮かぶかもしれない。そうして自分の中に映し出されたものは変わっていくこともある。色々な場面への旅をふらふらとするように、自分の内面を彷徨う中で、気持ちが少し落ち着いてくる。

 

 このとき、人は一人でいることの幸福を感じる。自分の内面に広がるものを感じているときは静かな幸福がある。

 

 目を閉じている人の、その様子を見ていると、目の前の人が目を閉じていたとしても、相手の内面の変化につれて、雰囲気が柔らかくなっていくことがわかる。そういう人の前にいると、自分もなんだか穏やかさを感じられる。

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Image by KateřinaCC BY

 

目を開けた時、ひとは何を見出すか

 内面に潜って行き、また目を開けるときが来る。瞼をゆっくりと開けていくと、それまでどこか遠い場所に行っていたような気持ちになる。目の前にはまた現実の光景が眼球を通り抜ける光によってもたらされる。夢を見たときと同じように、現実の光景は自分の内面の中で見たものを捉えがたいほど遠くに追いやっていくように感じる。

 

「なんだかね、こんなことを思ったんだけど…」

 

 とつとつと、遠くに行ってしまいそうになっている情景を語るとき、少し夢想的な目をしている。そうなったときのコミュニケーションは、分かってほしい、理解されたいというようなものではない。それは子どもがその日にあったことを夢中で話す感じに似ている。それを聞いていると、何かその人の内面の世界に自分も引き入れられていくような感じがする。

現実と自分が新たに重なり合うときに

 これと同じようなことは、人が話をし合っている間にも何度も起こっている。ほんの数秒、話し相手の目から視線をそらせたとき、目を閉じずとも人はどこかに潜っている。目を見つめているときでさえも、目に映っているものを見ていないときもある。心ここにあらずという様子の目。そのとき、自分の内面へと潜っている。

 

 それを失礼だという人もいるだろう。しかしそんなとき、「ねぇ!」と呼びかけることもせず、潜っている先がどこなのだろうかと感じようとしてみるのも面白い。この人は自分を目の前にして、どこにいるのだろうかと。そんなことをしていると、目の前の人と同じような感覚になっているように思うこともある。

 

 セックスをするときは、それが会話のとき以上に顕著になるように思う。セックスのとき、こちらの目を見てくる人と、見てこない人がいる。

 

 相手がこちらを見ていないとき、目の前の相手が遠くに行ってしまったなと思う。この人にとって、相手は自分でなくとも良かったのだろうなと少し悲しくなるときもある。しかし、そう思っているときに、パッと相手の目が開いてこちらを見てきたときはびっくりする。また自分の方へと戻ってきたと。

 

 人に触れられると自分の体の感覚に意識が向き、内面に潜って行くことになり易い。自分もまた、相手に触れられて与えられた感覚を通して、想起される出来事の中に潜って行かざるを得ないこともある。心地良さを味わいながら、この触れられる感じは何かに似ていると思い浮かんだり、何かを思い出したりする。

 

 そんなとき、ぼんやりとした目に映っている目の前の相手のことも見たままにしていると、想起されたものと相手とがじんわりと重ね合わされて、混じり合っていく。まるで、相手に、自分の空想や思い出された過去の出来事が混ぜられていくような。

 

 例えば、優しく触れられたときには、こんな感覚を味わったことがあるとふと思い出す。今まで自分に触れてくれた人たちのこと、そのときの自分の気持ちや思いがふっと湧き出てくる。そのときに目を開けて、目の前の人の顔を見ていると、この人が今それを自分に与えているのだと感じる。目の前の人と想起されているものが混じり合っていく。この人は今こんな感覚、こんな気持ちで自分を触っているのだろうか…様々な感覚が自分の中に浮かんでは消えていく。

 

 終わったあとに相手の顔を見ると、自分にとって何か別の人になったような感じがして、より深く相手を見つめられるような感じがする。そんな体験ができたときのことはいつまでもよく覚えている。