© Eri Hosomi

 

私たち人間がものごとを「知る」「わかる」ためには、目で見ることが非常に重要であり、「明るい」という環境が不可欠である

今、この記事をお読みになっている方々。パソコンの前に座り、あるいはスマートフォンを手に、その画面の文字を追っていらっしゃる方々に共通していることは何でしょうか。それはすばり、「記事を見ている」ということです。太陽や照明の明るさ、または画面自体の明るさがあって初めて、私たちはものを見ることができます。
この、「見る」「見える」というのは、人間にとって非常に大きなウェイトを占めるものです。どうぞ試してみてください。建物の外へ出て、手で耳をふさいでみる、鼻をつまんでみる、そして目を覆ってみる。音が聞こえないより、匂いがわからないより、「見えない」状況になったときの不安の大きさは比べようもないはずです。実際、人間の五感の中で視覚の占める割合は83 %にも及ぶというデータがあります。私たち人間がものごとを「知る」「わかる」ためには、目で見ることが非常に重要で、そのためには「明るい」という環境が不可欠なようです。
さて、東京・浅草にある私のお寺では、月に一度、明かりにちなんだイベントを開催しています。それは『暗闇ごはん』という食の体験イベントで、参加者には薄暗く照明を落とした部屋の中でさらにアイマスクを着けて食事をとっていただきます。つまり、自分の前におかれた料理が何なのか、どんな食材がどのように調理されたものなのか全くわからない状況で食事をするのです。
当然、誰もがまず箸で料理をつかむことに苦労し、ようやくとらえることができたら、それを恐る恐る口に運びます。手で触ってみる人や口に入れる前に匂いをかいでみる人、唇で少し触れてみる人、まわりの人の反応を待つ人もいます。もしかしたら自分の嫌いなものかもしれないません。その料理がどんなものなのか、あの手この手で探るのです。

見ないで食べればわかるのに、見ながら食べるとわからない

『暗闇ごはん』でよく最初にお出しするのは、トマトの冷たいスープです。トマトのスープと聞くと、おそらくほとんどの方が赤い色を想像するでしょう。『暗闇ごはん』のトマトスープは違います。ある方法でトマトの赤い色をとりのぞいた、わずかに黄色がかった透明な色をしています。もちろん、参加者にその色は見えていませんが、一口飲んでみれば誰からも「トマト」という言葉が漏れてきます。このスープはトマトのエキスだけを使ったもので、トマト以外には塩も水も用いていません。純然たるトマトそのものの味わいが、目には見えなくとも参加者の正しい味覚を引き出しているのです。

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© Eri Hosomi

 

ところが、これと同じものを普段と同じあかりの下でお出しすると、驚いたことに途端に正解率が下がります。6割程度の人はトマトと言い当てますが、それと同時に、きゅうりやフルーツなどの名前が挙がるのです。見ないで食べればわかるのに、見ながら食べるとわからない。まるで謎かけのようです。これはいったいどういうことなのでしょうか。
両者の間にある決定的な違いは、そのスープを目で見たかどうかです。つまり、「赤くない状態」を目で見たかどうか。「トマト」と聞けば真っ先に艶のある赤い色を連想する人は少なくありません。同様に、やはり多くの人がトマト料理は赤いと考えています。ですから、口に入れるよりも前に赤くない状態を目で見てしまうと、その正体が何であるかを想像するときに、赤い野菜の代表格であるトマトを除外してしまうのです。けれど、実際は純粋にトマトのスープですから、誰でもその味に心当たりがあります。そこで、トマトによく似た、青臭くて果実味のある味わいのある他の食材を想起するわけです。

目には見えないからこそ真実にたどりつくことができる

冒頭で、私たち人間がものを知る、わかるためには目で見ることが重要で、それには「明かりが不可欠だ」と記しました。ところが、『暗闇ごはん』でお出しするトマトのスープは、目には見えないからこそ真実にたどりつくことができるものです。それを目で見てから口にしたのでは、真実から遠ざかってしまう。それは、トマトの印象のうちでもっとも顕著な赤い色に翻弄されているために起こることです。つまり、「トマトは赤い」という先入観に支配されて、よく知っているはずのトマトの味わいを思い出すことができないのです。
トマトは赤い。これは事実です。けれど、赤いことはトマトの一つの側面にすぎません。けれど、人間の知覚のうちおよそ8割をも占める「視覚」から得た情報の影響力は大きく、目に見えること以外の情報を隠してしまいがちです。目で見て「わかった」と思った瞬間、それは「わかった気になっている」にすぎないのです。
フランスの飛行士であり作家であるサン=テグジュペリの「星の王子様」に、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉があります。少年の描いた「象を飲み込んだうわばみの絵」が、大人には「帽子」に見えてしまう。そうなると、大人にとってそれはもはや帽子の絵でしかなく、それを描いた少年の心の動きに思いを及ばすことはありません。結果として、大人の目から「うわばみの絵」は永遠に隠されてしまうのです。トマトのスープと同じです。
明かりがなければものは見えません。見えなければ、そのものが何であるかはわかりません。それと同時に、見えたからこそ見えなくなるもの、わからなくなるものがあります。ものごとを本当に理解するには、「わかった気になっている」自分の状態をまず認識することが、その一歩になるのです。