火花の勢いが落ち、柳のように枝垂れるこのときを「柳」と呼ぶ。
バケツが風除けになるため、鏡のような水面に映る花火が美しい。

 ほとんど真っ暗闇の広い室内に、40人以上の大人たちが集まっている。私は1本だけ持参した線香花火を取り出して、そっと火を点けた。闇の中で小さな光がシャッシャシャシャッと小さな音を立て、黒色火薬の匂いを漂わせながら細やかに表情を変えていく。全員がそれに無言で見入る。たった1本の安物の線香花火を、80以上の瞳で囲むという、ちょっとありえない光景。

 

 赤い火の玉が幽かな火花を散らしている間、変な言いかただが、ゆったりとした緊張感が闇を支配し続けた。やがて最後の光が潰えると、ふうっと場の空気がゆるんだ。黒色火薬の残り香とともに、満足感と幸福感が漂っているのがはっきりとわかる。後ろのほうの人は、直径数ミリの小さな火の玉を何メートルも離れて見ていたわけだが、それでも「とてもいい時間だった」としみじみと言っていた。

 

 昨年4月、トークライブハウス「高円寺Pundit’」で、暗闇演劇を10年間続けてきた大川豊興業の大川総裁と、闇対談イベントをやったときのひとコマだ。まさにひとコマでしかなく、線香花火を点けてから消えるまでわずか1分前後だが、ほんとうにぜいたくな1分間だった。この夜は、会場をほぼ真っ暗にして蛍光灯を静電気で怪しく点したり、和蝋燭だけを照明にして対談したりなんだりといろいろな形で闇の中のあかりを楽しんだのだが、単なる線香花火で最も手応えを感じたのだった。

 

 たった1本の線香花火を室内で丁寧に楽しむ幸せ……。

 

 コンビニかどこかで手ごろな花火セットを買って数人で花火を楽しむとき、ふつう、庭先や玄関先に出て、最初はちょっと派手めの花火を楽しんで、中だるみのあと、線香花火でシメる。線香花火はたくさん入っているので、みんなで次から次へとわんこそばのように火を点けて、だれが長持ちするか競ったりしながらチャッチャとやる。

 

 だが今よりずっと線香花火が高価だった昔は、もっと1本1本を大事に楽しんだ。線香花火を点けると、わずかの間に次々に姿を変えていく。わなわなと火の玉ができあがる「牡丹」から松の枝葉が広がるように火花がにぎやかになる「松葉」、火花がおとなしく枝垂れ落ちる「柳」、そして最後まで精一杯火花が散る「散り菊」。たった十数秒ごとの火の形にいちいち名前がついているほど、線香花火は一瞬一瞬を丁寧にじっくりと楽しまれていたのだ。

 

もともと線香花火は屋内でやるものだった。だから火花が激しく飛び散るほかの花火と違い、屋内で楽しみやすいようにできている。

 室内で線香花火をやるのはいかがなものか、と思う人もいるかもしれない。だが、線香花火は花火線香ともいい、17世紀前半に上方で誕生した当初は、香炉に線香のように立てて楽しむものだった。また、冬に火鉢の中で線香花火を楽しむこともあったという。香炉や火鉢はふつう、屋内にある。座敷でなく土間に火鉢を置いてやったともいうが、いずれにしても屋内だ。

 

 屋内で楽しむ線香花火を「部屋花火」あるいは「座敷花火」(ザシキワラシみたいでいい響き)と呼ぶことにしよう。座敷花火をやるときは、絶対に失火しないよう、細心の注意を払わなくてはいけない。その点、土間に火鉢というのはすばらしい組み合わせだが、残念ながら現代では土間も火鉢も一般的ではない。

 

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バケツに水を入れ、水に映る線香花火を同時に楽しむ。火花が松の枝葉のように四方に伸びるこのときを「松葉」と呼ぶ。

 庭先などで花火を楽しむときは防火のため、バケツに水を少し入れて置いておく。あるとき、ふと思い立って玄関内のタタキにその水バケツを置いてドアを閉め、電気を消して水の上で線香花火をやってみたら、これが実にいい。

 

 防火的に完璧なだけではない。火花と火の玉がほの暗くしっとりと水に映って、それに、闇の中でプラスチックのバケツがランプシェードみたいに光を透かして、なんの変哲もない安物のバケツなのに、えもいわれぬ美しさなのだ。

 

花火が喜ぶ闇をつくり、花火が喜ぶ水を張り、家の中でわずか1分間の水上花火大会を開催する、小さなぜいたく。

 打ち上げ花火の世界では、水に映る花火を愛でることが珍しくない。というか、水に映してこそ花火だ。徳川吉宗の時代に始まった隅田川花火大会をはじめ、東京湾大華火祭、諏訪湖祭湖上花火大会等々、川や海や湖で開催されることがとても多い。なのに、手花火をやるときはまず水に映さない。安バケツの水に映すだけで、幻想の世界がかんたんに立ち現れるというのに、なんてもったいないことだろう。

 

 バケツの中でやる利点はもうひとつある。バケツが風除けになって、火の玉がなかなか落ちないから、長い時間楽しめるのだ。バケツでなくても、屋外に比べ屋内は風を除けやすい。だから、風に弱く儚い線香花火は、そもそも屋内向きなのだ。

 

 打ち上げ花火は光と音の芸術だというが、手花火の場合は匂いも重要な要素だ。線香花火をちょっとやっただけで、家の中には黒色火薬の残り香が強く漂った。火花が飛び散るときの囁くような音も、静かな屋内ではよく耳に残る。

 

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山里の打ち上げ花火。江戸時代の和火と違って花火の色は派手だったが、まわりがかなり暗いので、ちょっと江戸の花火大会っぽい気分。

 

 こうして暗い家の中で線香花火を楽しんでみてなにより感じるのは、闇の心地よさと光の清らかさだ。闇がなければ光はない。しっかりと暗い闇の中でこそ、光は最も美しくなる。そして実は、江戸時代よりも現代こそ、線香花火を屋内で楽しむ意味がある。

 

 もともと花火は、電気のなかった時代、ほんとうに暗い闇の中で楽しんだ。歌川広重の有名な浮世絵連作『名所江戸百景』の「両国花火」を見ても、川の向こうに広がる幕末の江戸の街は闇に沈んでいる。ほんとうに暗く深い闇に包まれてこそ、花火の光は最も鮮やかに広がる。また、視覚に頼りきれない闇の中で五感が鋭敏になった状態でこそ、花火の音や匂いも丁寧に楽しむことができる。

 

 だが今、電灯があふれて夜が明るいこの国で、屋外に闇を求めるのはなかなかたいへんだ。とくに線香花火のか弱い光は、明るい夜の中では、ひどく地味に見えて魅力が激減してしまう。昔と同じように花火を楽しむには、屋内でやるのがなにより手っ取り早い。屋内なら闇をたやすくつくることができる。

 

 夜が明るい現代こそ、線香花火は屋内でやったほうがいいのだ。電気を消して、水バケツで座敷花火を楽しもう。ひと晩に1本だけやるのがいい。

 

 ではまた来月。闇の中で会いましょう。