路地の入り口に差し掛かると、「こだわりの個人経営の店があるのではないか」という期待感を煽られます。冒険心が湧いてきて、ついつい路地の中に吸い込まれてしまいます

さまざまな灯りが入り乱れる都会の繁華街は、夜でも明るく感じます。看板広告の照明、タクシーのライトなどの無数の灯りが繁華街という舞台をライトアップしています。ちょっとやそっとの光じゃ、まわりの光が保護色となって目立てません。一方で、街外れの飲み屋横丁の薄暗い路地に目を向けると、赤提灯のわずかな灯りでも十分に目立ちます。


街を歩いている時に、路地の入り口で足を止めて、路地の内部を覗き込んでみましょう。奥の方に赤提灯が目に入ると、その路地には居酒屋があることを認識できます。大通りには誰の趣味とも一定の距離を置くチェーン居酒屋が多いですが、路地の入り口に差し掛かると、「この路地には大通りにはないような、こだわりの個人経営の店があるのではないか」という期待感を煽られます。冒険心が湧いてきて、ついつい路地の中に吸い込まれてしまいます。路地は人を選ぶ場所ですが、人も路地を選ぶように思います。それだけに、路地で個人経営のお気に入りの店に出会えると、その街が自分にだけいつもとは違う、とっておきの表情を見せてくれたような気持ちになります。その街と相思相愛になった気分になり、一気に自分とその街の距離が縮まります。
ところで、最近、そんな路地裏の赤提灯を雑誌やテレビでよく見かけるようになった気がします。狭い通路の両側に赤提灯が連なる、いわゆる「横丁」と呼ばれる路地に広がる飲み屋街が、中年だけでなく若い世代にも人気なようです。情報誌の特集記事に「横丁ブーム」という言葉を見かけることも多くなりました。
 

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ひとくちに赤提灯といっても、提供される食事も店のサイズも多種多様です。焼き鳥、串揚げ、立ち呑み、コの字カウンター・・・。自分にあった店に出会った時、相思相愛のような気分になれることも赤提灯/居酒屋の魅力のひとつです

“横丁ブーム”を超えて“横丁文化”という言葉を耳にする日も近い

人々はいつから路地や横丁と呼ばれる場所に興味を示し始めたのでしょうか。気になって、過去の出版物からそういった場所がどのように語られてきたかを調べてみました。すると、1970年台後半に一部の建築家が路地の魅力を提唱し始め、1980年台中頃には一般の間でも路地や横丁と呼ばれる空間の魅力が認識されていたことを知りました。1980年台中頃といえば街の中に主要な百貨店が出揃ってきて、都市開発が一段落迎えたころです。その頃からお洒落に敏感な若者は横一線のお洒落に嫌気が差し、人との差別化を意識するようになり、価値観が多様化しました。これが街のなかでどういった影響をもたらしたかというと、路地などの一見入りづらい場所にも進んで人が訪れるようになったようです。路地にお気に入りのお店を持つことで自分を他者とセンスで差別化できるという発想からです。

そう考えると、世間はもう30年以上もの間、「最近、横丁が流行っている」と言い続けているのです。横丁ブームと一時口にすると、またしばらく言わなくなります。そしてまた少し時間が経って忘れた頃に、横丁ブームが来たと言い出すようです。つまり、横丁という場所が人々を魅了することは一過性のものではないのです。“横丁ブーム”を超えて“横丁文化”などという言葉を耳にするようになる日も近いでしょう(もう聞こえ始めているかもしれませんが)。

闇市では裸電球の灯りを頼りに多くの人が群がりましたが、今日その闇市は赤提灯の灯りを頼りに人が集う“横丁”に姿を変えました

近年、特に横丁が若者の間で人気になったことは、横丁の「灯り」の変化にも読み取れます。元々、赤い原色の光が暗闇に灯る路地でしたが、今では若者向きのモダンな店もできたこともあって、オレンジなどの若者の関心を惹き付けそうな淡い色味を用いた内照式の洒落た看板が見受けられるようになりました。若者向きのモダンな飲食店が、昔ながらの佇まいを残す横丁に新たな息吹を吹き込むことで、横丁に新しい灯りが見えるようになりました。

三軒茶屋「ゆうらく通り」や吉祥寺「ハモニカ横丁」は、モダナイズドされて多くの若者で賑わう人気の横丁の代表格といっていいでしょう。こういった一帯を外側から眺めると、古びたバラック建築群のように見えますが、横丁のなかに一歩足を踏み入れると、鉄骨造りの洒落た造りのカフェがあったり、前面がガラス張りの飲み屋があったり、レトロとモダンが融合した不思議な空間が広がっています。新旧混在の新しい価値観を提示し、多くの若者の関心を引きつけたようです。そこにいる人達は、スタバへ行って、「スタバなう。」なんて呟かなそうな、横一線のお洒落を楽しむ多くの友達と自分を差別化したいと、新しい刺激を求める若者が多いように感じます。

 

横丁が若者の間で人気になったことで、横丁の「灯り」に変化が。赤い原色の光が暗闇に灯る路地でしたが、今ではオレンジなどの若者の関心を惹き付けそうな淡い色味を用いた内照式の洒落た看板が見受けられるようになりました

こういった横丁は狭い路地に多くの建物が並んでいることもあって、建築基準法に適合していない場所が少なくありません。現在では新たに造りだそうとしても、造ることができない場所です。では、なぜこのような特異な空間が創りだされたのか。理由はその起源にあります。横丁の多くは終戦直後、自然発生的に広がった「闇市」が元になって形成されました。裸電球の灯りを頼りに多くの人が闇市に群がりました。
 

「闇市」とは統制経済下に不法に統制品を売買していた市場のことです。戦中戦後、政府は国民に対し米や肉などの主要な食料は統制品として自由な売買を禁じたことから、政府からの配給によってのみ得ることができました。ところが、その配給は成人男性が1日に必要な摂取カロリーの半分にも満たないものでした。政府の方針にしたがって、十分とはいえない配給だけで主な食事をまかなっていては栄養失調で死んでしまう終戦直後。善悪の判断よりも、生きるためになにをすべきかを優先し、人々は「闇市」を利用しました。闇市は人間が本来持っている生き物としての野性味あふれる、エネルギッシュな「生」への執着が表現された場所でした。人間が生き物として“自然”な在り方を表現した場所といえるかもしれません。

 

左上の物体が問題の「コロッケ」

闇市や横丁は人間が創りだした自然といえるでしょう。“観念としての自然”をそこに見出すことができるからこそ、闇市や横丁は魅力的な存在たりえるのかもしれません

わたし自身は、闇市やそれを起源とする横丁は、都会の中の大自然だと捉えています。自然というと、野生の植物が生い茂る場所を思い浮かべるかもしれませんが、闇市は人間が創りだした自然です。人工/非人工にとらわれない“観念としての自然”を見出すことができるからこそ、闇市やそれを起源とする横丁に魅力を感じます。
 
終戦直後、人間の生活の営みが集積してカタチとなった闇市、そしてそれを起源とする横丁。闇市では裸電球の灯りを頼りに多くの人が群がりましたが、今日その闇市は赤提灯の灯りを頼りに人が集う“横丁”に姿を変えました。闇市という言葉はもはや死語ですが、都市空間の中では横丁に姿を変えて生き続け、戦後70年経った今も人々に必要とされ続けています。(写真/井上健一郎)