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目にうつるものではなく、どのような「思い」でそれらを見るかが大切

前回の記事、『あなたの「美味しそう」は、本当に「美味しい」ですか?』の中で、小説「星の王子さま」の冒頭に出てくる「ウワバミの絵」を取り上げました。お話の中には、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉が出てきます。これは物語全体に一貫するテーマだと言ってよいでしょう。星の王子さまは様々な星を訪ね、多くの奇妙な人々に出会います。誰かと出会うたびに、なんの偏見もないまっすぐな心で語り合う王子さまですが、話せば話すほど「おとなって、ほんとにへんなものだなあ」、「おとなって、とっても、とってもおかしいんだなあ」、「おとなって、まったくかわってるな」という思いを募らせるのです。

いくつもの星を旅し、やがて王子さまは地球にもやって来るのですが、あるとき、庭に咲くバラの花を見つけます。すると王子さまは、自分の星には一輪しかないバラをことさら大切にしていたのに、地球では一箇所に何千も咲いている様を見てさびしい気持ちになりました。

「ぼくは、この世に、たった一つという、めずらしい花を持っているつもりだった。ところが、じつは、あたりまえのバラの花を、一つ持ってるきりだった(後略)」

しかし一匹のキツネが、こんな言葉を贈ります。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」

目にうつるものが大切なのではない。どのような「思い」で見るかが大事なのであって、そこを気にかけなければ、本当の愛や美しさには気づくことができないという意味です。花も、星も、石ころ一つでも、どこにでもあるそれらに意味を見いだせるのは、自分にとってそれが他のどれとも違うたった一つの特別なものだからなのです。

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小さな種が芽吹き、大きく育ってつぼみをつけ、ついに花開くのを見守り世話をしてやった、王子さまの星に咲くバラの花。美しく咲いたはいいけれど、高慢で気むずかしく、いつも王子さまを困らせるバラの花。けれど、だからこそ自分にとっては唯一の特別な花だったことを、王子さまは思い出しました。

さて、「星の王子さま」は外国で書かれた作品ですので、背景となる時代も宗教も違いますが、あえて仏教の視点から考えてみましょう。

目に見えるものにとらわれてはいけないという「星の王子さま」のメッセージは、私たち人間は先入観にとらわれて、ものごとを正しく見ることができないことがあるとの記述に重なります。しかし、執着から離れることを旨とする仏教では、目に見えないものにもまた、とらわれてはいけないとしています。

本の中には、自分以外に誰もいない星で権力や体面にこだわる王さまや、酒をのむはずかしさを忘れるために酒をのみ続ける呑み助など、奇妙な人物が次々に登場します。彼らの様子が滑稽に思われるのは、意味のないものに執着することの愚かしさが端的に描かれているからです。他者を支配したいという欲求も、酒をのまずにいられないはずかしさも、どちらも本人の心の問題で、目に見えるものではありません。彼らはそこから逃れることができず、むしろそこに頼っているようにも見えます。

一方で、王子さまがバラの花に対して抱く親しみや愛情もまた、執着のひとつだと言えます。執着と言えば、何かに必要以上に固執したり、過分に欲しがったりなど、強欲と結びつくようなマイナスのイメージを抱きがちです。けれど、王子さまが持っているような、希望や幸福感を与えてくれる思いまでが執着であるとは、いったいどういうことなのでしょうか。

人の欲とは、実はそれ自体が悪いものではありません。例えばお腹が空くのはごく自然なもので、それを満たそうとする食欲は生き物として当然のものです。けれど、いわゆる腹八分目を超えてもなお、たらふく食べたい、ご馳走を食べたい、有名なお店で食べたいなどとなると、これはいけません。

永遠に変わらないものなどありはしないのに、失いたくないと固執する。自ら苦しみを引き寄せてしまうのが、私たち人間です

王子さまがバラを大切に思う気持ちも、それ自体は悪いものではありません。美しいものを見て美しいと思うのは当然のことです。ところが、人の気持ちというのは厄介なもので、何かを大切に思うと、その何かを永遠に失いたくないと思ってしまうものです。美しい花が然り、誰かとの親しい関係が然り、自分の健康や財産が然り。世の中は諸行無常、永遠に変わらないものなどありはしないのに、失いたくないと固執してしまう。そしてそれが失われれば、嘆きや悲しみ、あるいは怒りを覚え、自ら苦しみを引き寄せてしまうのが、私たち人間なのです。

大切なものは目に見えない。だから、目に見えるものばかりにこだわってはいけない。

これは一つの真実だと言えるでしょう。けれど、執着から離れようとするならば、目に見えないものにこだわってもいけないのです。目に見えないものが大切なように、見えるものの中にも大切なものはあります。

仏教の立場から究極の目的を言うならば、目に見えるものにも見えないものにも執着せず、むしろ、「執着しないということに執着しない」のが理想です。それを実現されたのがお釈迦さまであるわけですが、私たち人間がその境地に至るのは極めて困難で、不可能と言い切ってしまってもいいかもしれません。しかし、不可能とさえ思われるその高みを目指すのが仏教です。果てしない道のりではあっても、お釈迦さまの示してくださる教えを頼りに、究極の目標を見失わずに生きたいものです。

「星の王子さま」の最後に、印象的な言葉がありました。

「人間はみんな、ちがった目で星を見るんだ。旅行する人の目から見ると、星は案内者なんだ。(中略)だけど、あいての星は、みんな、なんにもいわずにだまっている(後略)」

自分のこだわりや大切にしているものによって、同じ星を見ても人それぞれ見え方が違うことを示しています。けれど、実際の星は案内者でもなく金貨でもなく笑い上戸でもありません。星は星に過ぎないのです。星の本当の姿を理解したいと思うなら、自分の色眼鏡を外して見なければなりません。

「わかった気になっている」自分の状態をまず認識することが肝心ですが、同様に、執着から離れようとしても離れられない人間の愚かしさを認めることが、ものごとを正しく理解する一歩になるでしょう。