天岩戸神話の天照大神(春斎年昌画、1887年)

「光あれ」。聖書において、神が最初に発したとされる言葉です。神が言うと、その言葉どおり、この世に「光」というものがもたらされます。
 

「神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である」。

 

神が「光あれ」と言う前の世界はどうなっているか。目の見えない人は世界をどう「見て」いるか

 天地創造という大仕事の一日目、空をつくるよりも海をつくるよりも先に、神はまず世界に光を与えました。神の最初の仕事は、いわば「世界にあかりをつける」ことだったのです。
 
 聖書に限らず、世界の根源に「光」を置く考え方は、文化の垣根を超えて各地に見られるものです。我が国にも神々の元締め的存在である天照大御神という光や太陽を象徴する神がいましたし、森羅万象を二つの気の働きとみなす陰陽思想、ハヤブサの頭部を持つ神として描かれることが多いエジプト神話の太陽神ラーなど、洋の東西を問わず、光をベースに組み立てられた世界観は枚挙に暇がありません。「世界を統べる光」という発想は、人間にとっては「自然な」発想なのでしょう。
 

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「光と闇の分離」ミケランジェロ画、システィーナ礼拝堂天井画、1509年

 ところが、私が研究しているのは、こういう世界とはちょっと別の世界。神が「光あれ」と言う前の世界なのです。こんなことを言うと、新種の宗教かそれとも無神論者か、はたまた不思議ちゃんかと驚かれてしまうかもしれませんね。もちろんそうではありませんのでご安心を。私の専門は、身体論。人間の体について言葉で記述しようとする哲学や美学の一ジャンルです。
 
 身体論のなかでも特に近年は、視覚障害者の身体についてリサーチしています。目の見えない人が、どんなふうに自身の身体を使っているのか。足の裏の感触や頬にあたる風、あるいは他の人の言葉を手かがりにしながら、この世界をどんなふうに認識しているのか。じつは彼らにとっては、見えないことは欠如ではなく、見える人とは違ったしかたで世界を「見て」いるということを意味します。私自身は晴眼者ですが、目が見えるなりに、見えない人の身体や世界について、インタビューやフィールドワークを通じて理解しようとしています。
 

失明するとは、光を失い、闇を失い、そうすることで光と闇という仕方で世界を二つに分ける発想から自由になるということ

 目の見えない人は、言うまでもなく、光のない世界に生きています。しかし注意しなければならないのは、だからといって彼らが「闇の世界」に生きているわけではないこと。全盲のプログラマー/音楽家である塩谷靖子さんは、その状態をこんなふうに語っています。
 

完全に視覚を失った状態は、決して「闇」などではない。視覚のある状態で停電になれば、そこは闇である。しかし、常に視覚のない状態にいる者にとっては、周りは闇ではないのだ。「明」があるからこそ「暗」があるのであって、普段から「明」がない者にとっては「暗」もないのだ。明るくも暗くもない感覚の中にいるとでも言おうか。(…)
その意味で、「失明」という言葉は不完全であり、正しくは「失明暗」と言うべきではないだろうか。(『寄り道人生で拾ったもの』、小学館、27頁)

 
 光と闇は常にセット、コインの裏表です。聖書では先に闇があって神が光を作っていますが、この視点から考えると「光あれ」と言う神の最初の言葉の本質は、「照らすこと」ではなく「分けること」であったと言うべきでしょう。「明るいところ」と「暗いところ」という、二つのカテゴリーに分けられた世界。
 
 晴眼者にとって「明るいところ」は、認識が成り立ち安心できる自分の領域(ホーム)であり、「暗いところ」は不安をかき立てる未知の領域(アウェイ)です。明暗は、単なる視覚の有無を超えて、感情や行動のあり方を大きく左右する要因になり得ます。停電した瞬間、慣れ親しんだはずの場所が一瞬にしてアウェイになる。それくらい、見える人にとって光の「分ける」作用は決定的です。
 
「失明暗」という塩谷さんの表現は言い得て妙です。文章にあるように、視覚障害者が生きているのは、見える人にとっての停電直後のような闇の世界ではありません。失明するとは、光を失い、闇を失い、そうすることで光と闇という仕方で世界を二つに分ける発想から自由になるということです。視覚障害者が生きているのは、光があっても見えないけれど、だからこそ暗闇であったとしても「見える」世界なのです。
 

神話の世界は、なぜ世界は光とともに始まるのか。見える人の想像力の「どん詰まり」

 そうは言っても、「明るくも暗くもない世界」なんて、見える人には到底想像がつきません。おそらく、想像がつかないからこそ、多くの神話が世界の始まりに「光」を置いたのでしょう。つまり、そこが想像できるどん詰まりだった。だからこそ、世界が光とともに始まるような物語が作られたのです。その限界も、視覚を用いない人にとってはまったく意味を持ちません。目の見えない人や視覚に頼らない生物が創世記を書いたとしたら、世界の始まりで神が作ったのは「光」ではなく「風」や「でこぼこ」だったかもしれません。
 
 この「明るくも暗くもない世界」を理解する上で手がかりになりそうなのは、中途失明者にインタビューすると、「最初は失明した事実に気づかなかった」と話す人が多いことです。事故等で視力を失った人であれば、視覚の喪失は日付とともに突然の出来事として記憶されています。しかし、進行性の病気で徐々に視力を失っていった人の場合、見える世界と見えない世界のあいだにはっきりとした断絶はありません。
 

「最近目を使ってないなと思って、気づいたら見えなくなっていた」失明はドラマチックにやってこない

 毎日のように通っている通勤途中の駅で、ある日突然電車がやってくるのが分からなくなった。見える人は、「失明」をそんなドラマチックな出来事として捉えがちです。でも実際はどうも違うらしい。「あれ、最近目を使ってないなと思って、気づいたら見えなくなっていた」というような人が多いようです。
 
 どういうことでしょうか。通勤の場面をひきつづき考えましょう。晴眼者も、視覚のみによって電車を認知しているわけではありません。車体が見える前から振動がホームへと上がってきますし、地下鉄であればトンネルの空気が押し出されることによって生じる風、車体の走行音、駅のアナウンス、人の流れ、といったものがあります。これらを総合して、私たちは電車が来たことを認識するのです。
 
 見えなくなることで変わるのは、あくまでこれらの情報の割合。見えていたときは視覚からの情報が圧倒的に優位を占めていますが、徐々にその割合が減っていき、音や振動の割合が高くなってくるわけです。しかし、電車が認識できなくなるわけではありません。「ホームに電車が入ってくる」という心の中のイメージは、依然としてキープされています。
 

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© gui yong nian – Fotolia.com

 

誰もが同じ世界を見ているか―見える人と見えない人の「心の中のイメージ」の違い

 この、視覚以外の情報によって構成された心の中のイメージが、見えない人の「明るくも暗くもない世界」の正体でしょう。人は誰でも、心の中につくりあげたイメージの中を歩いています。「心の中のイメージ」といっても妄想のようなものではなく、「周囲の環境に対する理解」のようなものです。見える人と見えない人で違うのは、おそらく、この心の中のイメージに対する過信の度合なのです。
 
 見えない人は、見えている時には圧倒的だった、視覚からの情報に頼れないからでしょうか。心の中のイメージを過信せず、慎重にそれを検証しながら生きていることを感じます。誤りに気づけばイメージを柔軟に更新するでしょう。一方、見える人は、自分の心の中のイメージが世界の実際のすがたをとらえた「客観的」なものだと考えがちです。見えていれば誰もが同じように世界を見ていると思ってしまうのです。
 
 けれども、目を通して理解された世界は、それほど客観的で絶対的なのでしょうか。見えない人と関わっていると、逆に見える人の世界の「頑さ」が気になってきます。それについては、また稿を改めてお話ししましょう。