「感じるあかり」―照明の機能は「明るくする」だけではない

あかり・照明には、おおきく2つの機能があると考えています。ひとつは「照度を満たす」こと。何かの作業をするうえで必要な照度を得るために「明るくする」ということで、これはこれで大切なことです。そしてもうひとつの機能が、あかりは「感じるもの」である、ということです。
 
あかりというのはこの2つの機能が不可分に合わさっていますが、どうしても効率的に照度を満たすこと、つまり明るくすることにばかり意識が向かいがちです。
 
子育て中の親も、目が悪くならないか心配だとか、つけっぱなしにされると消費電力がかさむから効率の良いランプにしたいとか、そんな話ばかりをしてしまいますが、後者の「感じるあかり」についても、もっと話題になってほしいと思っています。
 
大人に関しては、子どもと比べて働いて何か作業をしなくてはいけないことが格段に多いので、「機能的に照度を得る」ことが求められるのも当然です。しかし、大人のように生産性を求められない子どもについては、もっともっと、あかりの「感じる」側面が中心に考えられてほしいと思うのです。
 

生産性を求められない子どもにこそ「感じるあかり」を

子どもが育った環境、つまりどんな家で、どんな家具に囲まれて、どんなおもちゃに囲まれて育ったかということは、発育や人格形成に影響を及ぼします。それと同様に、どんなあかりに囲まれて育ってきたかということも、大人になった時、感覚的に身についているように思います。
 
田舎で育った人の中には、毎日きれいな夕焼けを見ていたとか、いつも朝もやを眺めていたという方もいるでしょう。その豊かさはお金では買えないものです。子どもの時の記憶は本人にとっての原体験になるのです。
 
家の中のあかりの計画に関しては、たとえば「このスタンドはとても美しいな」とか、「ふわっと周りを照らしている雰囲気が優しくて大好き」とか、子どもが自分なりに小さな感覚を持ってくれるようになるとよいでしょう。「感じるあかり」、つまり「たのしむためのあかり」がちりばめられていると、子どもが成長していく過程で、大きな役割を果たすように思います。
 
中には「目が悪くなるからこのライトをつけなさい」と白色のあかりをしつらえる家庭もあるかもしれません。でも、子どものお気に入りのあかり、感性に訴えるあかりも、もっと大切にしてほしいと思うのです。
 

あかりに照らされたガラクタたち―蛍光灯のない家で見たあかりの世界

幼い頃、私の家は蛍光灯が一つもない、全てのあかりが白熱電球の家でした。私の父がインテリアの写真家をしているので、インテリアのスタイリストの方が、「使っているスタンドライトでこんな面白いものがあるよ」とよく教えてくれて、家に小さなスタンドがたくさんあったのです。
 
さらにこれも骨董好きだった父の趣味なのですが、私の家ではスタンドライトの下には貝殻や錆びたくぎ、アンティークのルアーや死んでしまったセミなんかが置いてありました。人によっては「なんだこれ」と思うようなものもありましたが、幼いころの私は、スタンドのあかりに「ふわっ」と照らされるそういったものたちを、父が好きなのはこういうガラクタなんだな、と思って楽しんで見ていました。他にも母がお気に入りの小箱があったり、スタンドの小さなあかりに照らされた四季折々の世界観を、愛着をもって眺めていたように思います。
 
同じものでも、蛍光灯の照明のもとで見るのと、空間にポンとスタンドが置かれていて、ほんのりと明るく世界観ができているのを見るのでは、感じ方は違うものです。私の家にあったのは、べつに高価なものではありません。しかし、きれいだなと思うものがいつも身近にあって、それを見て育ったように思います。

 
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筆者が息子のために用意した照明つきのお絵かき机

 

「光育」は、子どもと照らされるものとの関係性を育むもの

子どもと「感じるあかり」との出会いは、子どものスケールで行われることが大切です。というのは、大人の目線であかりをしつらえても、子どもからすると「高い棚の上であまり見えない」というようなことが起きてしまうからです。
 
でも、それがきちんと子どもの目線で見えるところで行われている時、子どもが「感じるあかり」と関わっていくということは、それはすなわち、子どもが照らされているものたちとより親密なかたちで関わり合っていくということを意味します。
 
子どもはあかりの世界を感じることで、自分で描いた絵や工作で作ったものを大事に飾ってみたくなったり、すこし違った気持が芽生えてきます。子どもとあかりで照らされるものとの関係性は、あかりを通じてより親密になってゆくのです。食育という言葉がありますが、それと同様に「光育」も豊かな感性を育むものであると考えています。
 

子どもは「コロッケ」をクリスマスツリーに飾る

私自身、子どもとあかりに照らされたものの関係性をあらためて考え直すきっかけになったのは、去年のクリスマスにあったこんなことでした。
 

左上の物体が問題の「コロッケ」

左上の物体が問題の「コロッケ」

クリスマスの時にクリスマスツリーを出すと、オーナメントを飾りますよね。その時、私の息子も何か自分も飾りたいと思ったのでしょう。彼は持っていた粘土をつぶして、「ほらー」なんて言いながら、それをもみの木に飾ってしまったのです。それで私が「飾ってくれたの? ありがとう、これ何?」と尋ねると、「コロッケだよ」と言うのです。
 
「なんでコロッケ?」「これのどこがコロッケだよ」とは思ったのですが、彼は彼なりに、クリスマスツリーに自分でイルミネーションを飾ったり、しつらえるということをしたかったのでしょう。クリスマスのあかりの中で照らし出したいもの、それが彼の世界では、粘土で作った「コロッケ」だったのです。

インタビュー・構成:須賀喬巳