© JUNxxx - Fotolia.com

はじめまして、今井明子です。気象予報士の資格を持つ、サイエンスライターです。今月から、二十四節気にちなんだ季節感あふれるトピックをお届けします。

 

そもそも、二十四節気とは一体何なのでしょうか。地球が太陽のまわりを公転する軌道を24等分し、それぞれの地点に名前をつけたものが二十四節気です。皆さんがご存知の「春分」「秋分」「夏至」「冬至」も二十四節気ですし、「寒露」や「穀雨」など、季節感のある名前のものもあります。

 

西方浄土思想と相まって、真西に沈む秋分や春分の日には、故人への想いが通じやすくなると考えられてきました。

さて、2015年の9月23日は二十四節気の「秋分」にあたります。秋分は太陽が真東から昇り、真西に沈んで、昼と夜の長さがほぼ同じになるという日。仏教では西が亡くなった方の世界で、真西に沈む秋分や春分の日は、故人への想いが通じやすくなると考えられてきました。秋分や春分の日が、お彼岸の中日に当たるのは、このような理由があるのです。

 

秋分の日周辺の連休を利用して地方へお墓参りに出ると、田園地帯で目に入ってくるのが、燃え立つような彼岸花の赤色。特に、田んぼの畔を縁取るように咲く彼岸花は、稲の黄緑色との補色のコントラストがすばらしく、はっとさせられるものです。

 

彼岸花の形も、独特で目が離せません。強く反り返った細い花びらに、長いつけまつげのようなおしべやめしべ。なんとなく触れてはいけないような禍々しさを感じさせます。そもそも、地面からにょきっと花茎を伸ばし、頭でっかちな花が咲いているのは、あまりにも唐突です。よく見ると、彼岸花には葉が生えていませんが、これも目にした時の違和感のひとつではないでしょうか。

 

秋分に咲き誇る、燃え立つように赤い魔性の花ーー彼岸花

彼岸花は花の時期に葉をつけず、花が終わってから葉が伸びて、春先になると葉が枯れます。しおれた花茎の根元には、すでに小さい葉が出始めています。このような独特なライフスタイルを送ることから、彼岸花には「葉見ず花見ず」という別名もあります。

 

なぜ、わざわざ光の弱い秋から冬にかけて葉を出すのでしょうか。それは、他の植物との競合を避けるためだと考えられています。周囲の植物が枯れ始める秋から葉を広げれば、太陽の光を独占することができるというわけです。
ほかの科の植物はもちろん、同じヒガンバナ科の植物であっても、花のあとに葉を出すという戦略を取る植物は少ないです。いやはや、彼岸花の光合成戦略は実にユニークですね。

 

cluster-amaryllis-b2

© takafumi99999 – Fotolia.com

 

彼岸花は結実せず、種では繁殖しません。そのかわり、地下にある、玉ねぎと似たような形の鱗茎によって繁殖します。がけ崩れなどが起こって彼岸花の鱗茎の一部が流されると、その流された鱗茎から根が出て、根の欠片からも発芽します。全国のところどころにある彼岸花の群生地は、このような形でできたのだと考えられています。

 

彼岸花の「毒」が守る農村の暮らし

では、彼岸花はなぜ、田んぼの畔道に生えているのでしょうか。四国学院大学名誉教授の高橋道彦先生にお話を伺ったところ、「畔道に人間によって植えられたからではないか」とのことでした。実際に、今の時代にセメントで畔に変わる区画ができても、さらにプラスチックの波板で畔からの水漏れを防がなくても、彼岸花を植えた畔の水は漏れなかったといいます。鱗茎にある、アルカロイド系の毒をネズミやモグラが嫌がるため、畔に穴があけられにくいということを、昔の人はよく知っていたのでしょう。彼岸花にはほかの雑草が生えるのを抑制する効果もあります。農業とは雑草との戦いですから、畔に植えることでほかの雑草の発生を抑えるために活用されてきたのかもしれません。

 

墓地に彼岸花が多く咲いている理由も同様です。高橋先生は、イノシシや野犬などが埋葬された死体を食い荒らしたり、トンビやカラスなどがお墓へのお供え物をさらっていったりしないようにするためなのではないかと推測しています。彼岸花に縁起の悪いイメージがあるのは、墓地に咲いているからでもあります。しかし、実際は墓地を守ってくれているのだから、皮肉なものですね。

 

民間薬として、食料として人々の生活に活用されてきた彼岸花。

「毒を転じて薬となす」ということわざがある通り、彼岸花の毒は、民間薬としても使われてきました。鱗茎をつぶして、小麦粉と1:1の割合で混ぜて足の裏に貼ると、市販の湿布よりも疲れが取れるのだそうです。きっと、昔の農家の人々は、農作業で疲れた足を彼岸花で癒していたのでしょうね。

 

このように、毒のある鱗茎ですが、中にあるでんぷんは、昔から飢饉のとき、人々の食糧になったというのだから驚きです。実際に高橋先生も、戦後の食糧難の時代に彼岸花の鱗茎を食べて生き延びたといいます。鱗茎を無毒化するためには、消石灰と一緒に炊く必要があるのですが、鱗茎の処理に大変な手間がかかります。ときには毒が抜けきれなくて、食べると口がしびれることもあったとか。最初に食べた人は、もしかして毒によって命を落としたかもしれません。長い年月をかけて試行錯誤し、毒を抜く方法が確立されて、農村に伝えられてきたのでしょう。

 

なんとなく不吉だけれど、つい吸い寄せられてしまう魔性の花。毒が人々の暮らしを支えてきたという、一見矛盾するような性質が、私たちを惹きつけるのでしょうか。

 
 
 

取材協力先:
高橋道彦
1932年高知市生まれ。旧香川農科大農学科(香川大農学部)卒。京都大学農学博士。1965年より四国学院大学の教授をつとめ、2001年に退職。現在は四国学院大学名誉教授。日本雑草学会と中国・四国雑草研究会会員、NPO緑地雑草科学会員。