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出会いにおける疑問と期待。ナンパで「出会う」ことはできるのか。

 別れについて、僕は分かる。それは受け容れるしかないから、何かを待ち受ける必要も、未知のものが訪れる期待を抱く必要もない。静かに水の中に沈んでいくようなもので、もしじたばた足掻けば、助かることはないのに余計に苦しい思いをしてしまう。静かに受け容れると、自然と落ち着くところへと沈んでいく。
 
 しかし、出会いについては、いつも分からない。
 
 自分に、新しい出会いがいつ訪れるのか。いつも疑問と期待を抱き続けている。
 
 ナンパは出会いのように思えるが、経験上、僕にとってはそうではない。ナンパにあるのは、自分の頭の中にある出会い方の反復を行っているだけで、既に知っていることをやるという無難な快楽を味わっているだけである。ナンパの出会いの中で、今でも印象に残っている、出会いだったと呼べるものは少ない。過剰に他人との接触を求めたことは、寧ろ、出会うべきものと出会うことを拒否するためのまわり道になってしまっていたように思う。
 
 経験したものは、どれをも思い出すことはできる。しかし、思い出しても、思い出しても、あのとき何が起こっていたのかが未だに気になるような出会いは、少ししかない。そのような出会いはことあるごとに思い出される。その出会いの中で相手から発された言葉、表情、声や動き……それらを生み出した相手の感情や感覚を想像することがなかなかできない。それらは心地好く僕に送られてきたが、相手と僕との間には存在の仕方に距離があり、とても遠くから送られてきたので、僕はただその恩恵に浴することしかできなかったのだ。
 
 その相手である彼女の動きはとても優雅で、発せられる言葉に淀みがなかった。僕は彼女の姿を思い出しながら、自分の動作や言葉を見直すようになった。そうやって何度も思い出す度に、あの日の彼女の存在の仕方と、今の僕の存在の仕方の距離を縮めたいと思う。
 
 そうしているうちに、その出会いも、思い出すことがなくなっていくだろう。
 

エクササイズとしての「出会い」と、自分のことを本当に話したいと思った時の「出会い」

 自分にとって出会いの瞬間とは、この人に自分のことを話さなければいけないと思う瞬間だ。それは誰かに自分のことを話したいというのとは何か違う。例えば、居酒屋の隣の席に座った人に、どんな仕事をしているのか、聞かれたとする。酔いに任せて、自分の話をする。時折、相手の話も聞きながら。何か話せたような気分になる。そのとき、僕は別に、相手に自分のことを話したいとは思っていないし、相手も本当のところは思っていないだろう。それは自分が知っている出会い方の反復、エクササイズでしかない。
 

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 どうしても自分のことを話したいと思ったとき、そう軽々しく話をすることはできない。じっと相手を見たり、相手の話を聞いたり、相手の聞き方を見たりしながら、緊張を感じる。それが切実なものになればなるほど、動くことができなくなる。しかし、もし「初対面の人に話しかけるためには、〜すれば良い」という自分が知っている方法を採用すれば、そのとき感じている緊張も、切実さも放棄することができる。そうすると、訪れるはずであった出会いの瞬間は、また自分が知っている出会い方の反復に過ぎなくなり、折角の相手をも、エクササイズの対象に過ぎない存在に変えてしまう。
 
 もしこの人に自分のことを話してしまったら…自分には想像のつかない反応が返されて、自分の人生が変わってしまうかもしれない。そんなことを思ったときに出会いの瞬間を感じる。趣味が合うとか、考え方が似ているとか、そういうことはどうでもいい。何か会うべくして会ったような、そういう形式的な会話をする余裕のないような出会いがある。
 

初対面で儀礼的な会話をしてしまったら。きっともう、二度と出会うことはできない

 社交上の儀礼的な会話などをしてしまったとき、他人との間に出会いの瞬間を作り出すことができなかったと、自分の余裕のなさを恥じる。あるいは、相手がもしそれをしてきたら、それも出会いではないと僕は判断する。こんなことを言うと、二回目に会ったときには緊張もほぐれて、儀礼的なものではない会話ができるかもしれないと言われそうだが、それは僕自身の考えとして、断固として違うと言いたい。二回目を期待する限り、相手に甘えることになってしまう。そして、甘えてもまた会ってくれる人は稀なのだ。
 
 大切だと思った出会いのときに、社交上の儀礼的な会話をしてしまうと、僕はパニックに陥ってしまう。こんなことを話したいわけではないし、こんなことを話したことで相手を蔑ろにしてしまっているのではないかと。そうなりそうなときには、一度黙るようにしている。黙っていると、それが然るべき人であれば、相手もまた黙り、僕が新たに動き出すのを待っている。それは反対もまたそうだ。相手を大切にしていると、その人の黙っているときに不用意に口を出すことができない。そのとき、二人の間には、静かで緊張感のある対話の空間が現れる。
 

初対面の人の、声と動作にあらわれるもの

 この人と話したいと思うとき、僕は声と動作を気にしている。声と動作はなかなか偽ることができない、その人が長い年月をかけて培ってきたものだ。
 

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 誰かと話しているとしても、周囲の空間を邪魔しない、落ち着いた声。その声を聞くと、その人が知覚している空間の範囲の広さを思う。
 
 動作は、自分が動いていることを静かに見つめているようなものが好きだ。動かそうとしているわけでもなく、無自覚に気づいたら動かしているというようなものでもなく。その人が触れると、触れられたものがとても貴重なものに思えるような動き。
 
 もし自分がこの人の声が発せられる対象となり、この人の手が触れる対象となったら、自分というものが変わってしまうだろうというような、そういう体験の予感があり、自分がそれを受けるに相応しいと思ったとき、自然とその人を見つめて、話しかけることになるだろうと思う。そうすることを避けられなかったというように。