生きている過去

 数日前、行きつけのバーで三十代半ばの男性がこんなことを言っていた。
 
「前の恋人が忘れられなくて、なかなか人を好きになれないんです。」
 
 社交的な人で、その日も若い女性を連れていたから、前の恋人と別れた後も異性との出会いはあるのだろう。彼に、前の恋人に会うことはあるのかを聞いたら、それはもうないだろうと答えた。
 
 過去に出会った人のことが思い浮かんでしまって、目の前の人を見ることができないということはある。過去の人への気持ちが強ければ強いほど、目の前の人の中に過去の人との共通点を見つけようとして喜んだり、あるいは違いを見つけて幻滅したりする。それは幻覚を見ているのに似ている。
 
 幻覚を見ていることを意識できるときはまだ良いが、意識できないこともある。
「結局、男なんて皆そうなのよ。」
 
 そんなことを言われると、彼女は自分では知らないうちに、他人の上に幻覚を重ね合わせて見ているのだなと思う。
 
 バーで出会った男性は自分がどうしても思い出してしまうことに悩んでいた。彼は自分がそうなっていることを自覚している。

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「もう忘れることにした。」
 
 目の前の人がそう言ったとき、言ったこととは反対に、忘れられないのだなと思う。
 その人にとって過去が消化されたのだなと思うのは、どういう発言を聞いたときだろうか。
 
「多分、あの人は僕にこうして欲しかったのかも……。でも、僕はそのときにこう思ってそれを受け容れられなくて……。あの人の目には、僕はこう映っていたのかもしれないな。」
 
 それが事実かどうかはわからないが、「忘れることにした」と蓋をされるよりも、彼の中で過去が生きていて、彼の変化に合わせて変容しているのを感じる。
 
 「もう忘れることにした」と言われるとき、僕は何かを言うことを期待されているように感じる。「そうなんだ。前に進もうと思ったんだね」とか、「へぇ、何かあったの?」とか。自分自身の過去に視線を向けることを他人に任せているような。
 

忘れられない、気になってしまう過去の中に入り込むことで新しい現実は開けていく

 忘れられないほど印象的な人がいることは素晴らしい。しかし、忘れられなくて、他の人のことを感じられなくなるのなら、それは苦しい。その過去の人が自分の感情の動きを止めてしまっているような感じがする。
 

 もう何年も前、別のバーで、いつ会っても同じ恋愛の話をしてくる女性がいた。僕だけでなく、他のお客さんと話しているときも彼女はまたその同じ恋愛の話をしていた。そのときは、同じ話をし続ける彼女を面白いと思って、いつも初めて聞くような感じで耳を傾けていた。
 
 彼女の話には、彼女の想いがなかなか率直に表現されていなかった。繰り返し語る姿に想いは溢れているのだが、語りの中には想いはなく、ただ事実を述べるだけであった。彼女の話は、過去の恋人との面白かった話、してもらって嬉しかった話で構成されていた。
 

いなくなった人への想いから見出されるもの

 もう自分の周りにいなくなった人々に対する想いとはなんだろうか。僕はいつも「分かってもらいたかった」ではないかと思う。自分自身に、彼らに何を分かってもらいたかったのかを問いかければ、彼女の繰り返される物語にも新しい展開が訪れたのではないか。
 
 そう問いかけることは苦しい。美化された想い出を汚すことになりかねない。惨めな自分、勘違いをしていた自分をそこに発見してしまうことになるだろう。しかし、美化された想い出の中に生きることが、新しい現実と出会うことを妨げるのではないだろうかと思う。
 
 うまくいかなかったことを思い出すとき、どうやったら相手に好かれただろうかとか、どうして相手は自分のことを好きになってくれなかったのだろうかと考えると、思い悩み続けることになる。そうではなく、自分の中の、素直な、腹の底から絞り出すような、「こうして欲しかった」と相手に対して思っていたことが見出せたとき、ようやくその棲み着いた相手と対話ができるようになる。相手はこう言うだろう。「そうかもしれないけど、私はこうして欲しかったのよ、こう思っていたのよ」と。
 
 それに対して「あぁそうだったのか」と見過ごしていたものを見つけられたとき、思い出されるたびに自分を苦しめていたその人は静かに穏やかに自分の中に居続けることになるだろう。それは、出会った人によって触発された自分の知らなかった自分の一部分に過ぎなかったのだ。自分自身はそうして出会った人たちの影響によって新たに見出され続けながら存在している。
 
 しかし、それは自分自身の話である。バーでの他人の話は黙って聞いている。美化された想い出か、新しい現実か、どちらを選ぶのかは本人が決めることだから、そこに口を挟むのは無粋だと思う。おそらく自分も、美化された想い出の中に生きながら、稀に新しい現実を見出しながら、生きているであろうから。