毎日通る道にあるいつもの建物がいつもの順番でいつものように見えてくるということが、われわれがいつもとかわらないわれわれであるという感覚を支えているのではないでしょうか

2020年のオリンピックに向けて、東京の街はまたしても大きく相貌を変えつつあります。歩き慣れた道を歩いていて、「いつのまにか街並みが変わってしまった」と気づいたときの軽い衝撃には、「どうして気づかなかったのだろう」といううっすらとした驚きと寂しさが混ざっているようです。

 
どこがどう変わったかわからない、つまり思い入れのある建物がなくなったわけでもないときでもその衝撃は変わりません。それがずっと不思議でしたが、先日建築家藤森照信氏の著作を読んでいて、ようやく腑に落ちました。いわく、人間は変わらぬ街並みを眺めることで自分のアイデンティティを保っているのではないか。毎日通る道にあるいつもの建物がいつもの順番でいつものように見えてくるということが、われわれがいつもとかわらないわれわれであるという感覚を支えているのではないかということでした。だから、建築としての重要さをほとんど持たない建物でも、そこに長く立っていたというだけで「このまま立ち続けてくれるといいなあ」とかんじさせるのだというわけです。

 
夢の中にも街並みは登場します。しかもそれが、いろんな街の組み合わせだったりすることはないでしょうか。これまで見てきた街並みが、そこで過ごした期間の長短に関わらず結びつき、ひと連なりの街路として再構成されていたりします。変化する風景に従って、新しい街を歩く昂奮や、見慣れた街を散歩する楽しさや、知らない街をひとりで歩くかすかな不安といったさまざまな感情が、さほど強烈なものではないにしても、連続的に湧き起こります。街並みがわれわれ自身であることを保証してくれるものであるとすれば、夢の中に登場する街並みには、わたしたちのミニチュア模型のようなものなのでしょうか。

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ベッドの脇から突き出て、頭上で直角に曲がったひかりの筒。色の変化は、呼吸や眠りのリズムに同期し、眠りというものが単なる休止状態ではなく、紛れもない活動であることを、ひかりの色の変化が示しているようです

夢の中で「これは夢だ」と気づくときに、「覚醒したまま夢を見続けたい」と思うことはないだろうか

 

われわれは、眠っている間にも時間経過を感じることができます。思った以上に寝ていたり、たっぷり寝たつもりが少ししか寝ていなかったりという誤差はありますが、時間が流れたことだけはわかります

ところでわれわれは、眠っている間にも時間経過を感じることができます。思った以上に寝ていたり、たっぷり寝たつもりが少ししか寝ていなかったりという誤差はありますが、時間が流れたことだけはわかります。それと対照的なのが、たとえば全身麻酔をかけられていたときで、このときは意識を失った瞬間と覚醒した瞬間が、完全に直結しているようにすら思えます。死というのは、そういう無時間が永遠に続く状態なのでしょう。

 
映画『光りの墓』には、「原因不明の“眠り病”」に罹った兵士たちが登場します。彼らはタイ東北部イサーン地方のある病院で“治療”を受けています。治療といってもそれは、基本的には眠り続ける彼らをただ見守るということにすぎません。

 
病室には、眠り続ける兵士たちの「魂と交信」できるという若い女性の姿もあります。彼女を通して、家族は眠る兵士と対話をします。要するに眠っている「患者」たちは、「いまはここにいない」だけで、こうしている間にもその魂はどこかにいて何らかの活動をしながら身体に帰還するときを待っているのだという感覚が共有されているのです。
 

ひとりひとりの患者のベッドには、「アフガニスタンの米兵には効果があった」という、ひかりをもちいた機器が設置されたりもしますが、いったいどのような効果があったというのか、われわれにはわかりません。でも少なくとも、眠り続ける兵士たちの感覚は完全に遮断されているわけでなく、外界からの刺激に対する感受性が維持されているという前提があることが、理解できます。
 

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『ブンミおじさんの森』でカンヌ映画祭最高賞パルムドールに輝いたタイの天才監督、アピチャッポン・ウィーラセタクン。光によって脳細胞を操作し、特定の記憶を甦らせようとしていたMITの教授の話が、制作を後押ししました

その機械は、青、緑、橙、赤、白といった具合に、少しずつひかりの色を変化させていきます。ベッドの脇から突き出て、頭上で直角に曲がったひかりの筒は、眠る兵士のからだから放射されているように見えます。色の変化は、かれらの呼吸や眠りのリズムに同期しているようにも感じられます。眠りというものが単なる休止状態ではなく、紛れもない活動であることを、ひかりの色の変化が示しているようです。通常、闇と一体のものとして認識されることの多い眠りを、ひかりとして表現しているのが、この映画の決定的な発見のひとつといえるのではないでしょうか。ただし、古今東西の臨死体験に頻出する強烈なひかりのイメージを考えあわせると、やはり兵士たちは限りなく死に近い世界をさまよっているということになるのでしょう。

 
では眠っている彼らは、あるいはひかりとなった彼らは、どこでどんな活動をしているのでしょう。その答えのひとつは、あっけらかんと示されます。いにしえから続くという戦いにかり出されていたのです。病院の土地の下には古い王墓があり、数千年前におこった王国間の戦いが、いまもなお王たちの魂によって続けられています。そのために、兵士たちの生気が吸い取られているのだそうです。

 

兵士の世話をしていたジェン(ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー)は、魂との交信ができるというケン(ジャリンパッタラー・ルアンラム)の身体に乗り移った“眠り病”の兵士イット(バンロップ・ロームノーイ)の導きによって、かつての王宮を訪れます。
 

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「僕にとって、聴診器で心臓の鼓動を聴いたり、光をあてて拡大鏡でものを見たりすることは、すでに魔法でした」とアピチャッポン・ウィーラセタクン監督は語ります

訪れるといっても、ふたりの姿を見つめるわれわれの眼前に、CGなどによって描画された王宮が蘇るわけではありません。眠っているイットの魂は数千年前の王宮を見ているようですが、導かれるジェンとわれわれの目には、木漏れ日の心地よい森と湖と、ところどころにある遺跡しか映りません。それでも、ぽつりぽつりと続けられるイット/ケンの説明によって、しばらくするとなにやらひかりに満ちた荘厳なものが木々の間にそびえ始めるような気がしてくるのです。ここでもまた、眠りがあらかじめひかりと同一化されてあることによって、普通なら「地下で続く暗黒の戦い」と括られているにちがいない因縁めいたお話が、どこか輝かしいものに変換されています。

 

その輝かしさゆえに、兵士たちはなかなか「現実の世界」に戻ってこられないのかもしれません。夢の中で「これは夢だ」と気づくことがありますが、そんなときに、「覚醒したまま夢を見続けたい」と思うことはないでしょうか。「夢の世界に逃避したい」ということではありません。どちらが現実の世界であるかという区別自体が意味を持たなくなり、二つの世界の境界が融解した世界こそが現実なのだという確信に捉えられる瞬間とでもいえばいいのでしょうか。それこそが「夢うつつの状態」なのだといわれてしまうのかもしれませんが。

 
この映画のラストにも、それに似た確信を伴う時間が訪れます。そのとき、わたしたちに風景を見せているひかりはどこから射しこんでいるのでしょう。それは、現在時への批評としての過去からのひかりなのかもしれませんし、あり得べきもうひとつの現実からのひかりなのかもしれません。

 
王宮の風景は、まぎれもなく主人公たち自身を形作っているものにちがいありません。ただし、その風景に向けられている視線が、ただ単に過去を懐かしむノスタルジーによって染め上げられているわけでないことはたしかです。しかも、そのひかりにどんな意味があったのか理解できるのは、だいぶ経ってからのことなのでしょう。ちょうど、「街並みが変わってしまった」という衝撃を受けるのが、たいていの場合すべてが終わってからのことであるように。

 
 
 

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■『光りの墓』
3月26日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー
© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)

 
 

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「映画はいかに「希望のひかり」を描くのか?〜ディズニーの新作『ザ・ブリザード』〜」(2016.2.26)
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