夜も深まり一層賑わいを見せると、居酒屋では店内に入りきらない客が、軒先の路地にまで組み立て式の椅子やテーブルを広げることも少なくありません

初めて訪れる街を歩くとき、赤提灯のあかりを目印にその土地の人々が集う横丁を探してしまいます。その土地の“日常”に触れたくて、というのが最大の理由です。“誰か”によって意図的に造られた街のシンボルは、その街の住人にとっては非日常でしょう。その地域で育まれてきた日常を見てみたくなるのです。
 

赤提灯が連なる横丁に足を踏み入れると居酒屋のモツ煮込みの湯気や、焼鳥の煙が軒先の通路にまで漂ってきます。わずかに客の会話も聞こえてきます。夜も深まり一層賑わいを見せると、居酒屋では店内に入りきらない客が、軒先の路地にまで組み立て式の椅子やテーブルを広げることも少なくありません。また、横丁のような狭い店が連なる一帯では、店の軒先の通路を店舗の一部に見立てて、通路にまで商品を陳列していることもあります。一般的な商店街であれば、店舗と軒先の道との境界線が鮮明でしょう。一方で、横丁だと境界線が曖昧な空間が広がっている様子がよく見受けられます。店内で完結するはずの商空間が軒先の路地にまであふれでているのです。

 

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通路にまで商品を陳列している横丁。境界線が曖昧な空間が広がっている様子がよく見受けられます。横丁は「道」という公の空間と「店内」という少しプライベートな空間が混在した場所なのです

横丁は、五感が自然と活性化する空間

横丁は通路でありながらも、そこに連なる店の“店内”でもあります。横丁の中を通行するときにはいつもより少し緊張感が求められます。軒先にあふれだした客や陳列された商品とぶつからないように注意を払うことが必要です。横丁は、「道」という公の空間と「店内」という少しプライベートな空間が混在した場所なのです。
 

横丁の多くは道幅が狭くて車が通れません。物と物、人と人の距離が近い、ヒューマンスケールな空間です。横丁の赤提灯の店内では、周囲の物や人と自分の距離が近いだけに、周囲にあるものに対して自然と関心を抱くように思います。正確にいうと積極的に関心を抱くというより、近すぎて無視しようとしても“無視しきれない”という消極的な関心の向き方かもしれません。自然と五感が過敏に“なる”というよりは“ならざるを得ない”のです。横丁のようなヒューマンスケールな場所は、五感が自然と活性化する空間であると言えるかもしれません。
 

自宅からも職場からも離れて、家族や社会人としての属性にも関わらない一人の人間としての自分を確認できる場所、それが横丁の赤提灯ではないでしょうか

普段、街を歩いているときや電車に乗っているときなどは、そばにたまたま居合わせた他人と言葉を交わすことはほとんどないでしょう。誰もが外出時に自宅を出た瞬間から自然とガードを構えているように思います。横断歩道ですれ違う人とは目を合わせたくありません。電車の中にいても同じです。むしろ周囲に対して無関心をあえて表現しているように思います。
 

一方で、横丁の小さな店、例えばカウンターのみの一人客が多いような店であれば、たまたま同じ店内にいる客と至近距離で居合わせているにも関わらず、長時間一言も交わすことがなければ、その方が不自然かもしれません。そこにいると、どういうわけか自然と構えているはずのガードポディションが取り払われています。店内でのちょっとしたことがきっかけで他の客と会話が始まります。見ず知らずの人とでも自然と会話を交わせる空間がそこにはあるように思います。
 

通路にあふれでた軒先。その先にもトロ箱が積み上がり倉庫状態に。通路は半分のスペースになりますが、逆にその狭さが自ずと商品や店への関心を高めることにつながります

ところで、横丁の赤提灯に居合わせた他の客は自分にとっては赤の他人かもしれませんが、そこで居合わせている時点でひとつの共通点があります。それは、お互い赤提灯に少しは関心があるということです。詳しい人物像までは分からないものの、価値観や趣味がある程度合う人。それでいて自分の普段の生活に全く関係のないような人が、横丁の赤提灯で居合わせる客です。そんな私生活に利害関係のない赤の他人との他愛もない会話が、実は自分に大きな安らぎを与えてくれるような気がします。
 

普段の生活はサラリーマンであれば自宅と職場の往復です。自宅では家族の一員として、父親、母親、長男、長女・・・などの立場があります。それぞれの立場に応じて家庭での役割があります。職場でも与えられた立場や役割があります。どこかでそれを全うすることを求められ、一定の束縛の中で普段の生活があります。
 

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そこで暮らす人々が安らぎを求めて集う横丁という日常に触れるとき、その街との距離感は一気に縮まっていきます

ところが、横丁の赤提灯にいるときは普段の生活とは切り離された人付き合いができるように思います。自宅からも職場からも離れて、家族としての属性や社会人としての属性にも関わらない一人の人間としての自分を確認できる場所、それが横丁の赤提灯ではないでしょうか。そこに集う人たちは、たまたま店内に居合わせた赤の他人たちと、横丁という「劇場」で「誰でもない自分」を演じているのかもしれません。
 

初めて訪れる街で、その土地の人々が安らぎを求めて集う横丁という日常に触れたとき、自分はその街との距離感を一気に縮められたような気がします。おそらく、どの街にも赤提灯のあかりが連なる横丁があるのではないでしょうか。きっと、だれもが心のどこかに“横丁”を求めているのですから。
(写真/井上健一郎)
 
 

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