わたしたちの日常生活における、ごくあたりまえなあかりの意味とはなんでしょうか。いつも光っていた電球がひとつ切れるだけで見えていたところが見えなくなり、生活空間に歪みが生じたような気分になります

わたしたちの日常生活における、ごくあたりまえなあかりの意味とはなんでしょうか。あかりにもいろいろありますが、それが電灯なら、もちろん現代文明そのものということになるのでしょう。いつも光っていた電球がひとつ切れるだけで見えていたところが見えなくなり、生活空間に歪みが生じたような気分になります。それでもしばらくその状態が続くと慣れてしまい、電球をつけ替えたときに、こんなに明るかったのかとびっくりすることもあります。

 
カリフォルニア州に、長野県がそのまますっぽり入る広さを持つデス・ヴァレーという名の国立公園があります。以前、その中心部あたりを自動車で走っていたときにふと脇道が気になり、地図もたしかめないまま未舗装道路に入り込んでみたことがあります。たいていの場合はしばらく先で行き止まりになったり、どこかでべつの道路につながったりするわけですが、その道だけはいつまでたってもどこにも辿りつきませんでした。
 
夕方のことでしたので、たちまちのうちにあたりは真っ暗になりました。岩だらけの崖が迫ってくるように見えるのでそろそろ突き当たりかと思うと、左右の壁はふたたび少しずつ後退してゆき道はどこまでも続きます。結局一時間くらい走ったところでようやく廃鉱に行き当たったのですが、そのあまりのおどろおどろしさに、車を降りてみる気にもなりませんでした。

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ディズニー配給の新作映画『ザ・ブリザード』。強烈なブリザードの中で遭難したタンカーの乗組員たちが、危険をかえりみず出港した一隻の救命艇によって救われたという実際におこった事件が語られます。ルールにはひたすら生真面目、でもルールのないところでは優柔不断な沿岸警備隊員(クリス・パイン)が、苦境をいかに打破していくかがみどころです

「希望のひかり」は、日常生活の感覚とつながった、
いちばんわかりやすい映画表現

 

『未知との遭遇』では、宇宙人たちはひかりの中から出てきて、宇宙人に導かれた人類はひかりの中に入っていきます。この映画におけるひかりとは、人類をはるかに超えた高度な知性そのものでした

あたりは完全な闇で、月あかりもなかったように思います。それでもどういうわけか稜線だけがはるか彼方に見えていて、いまにもそれを乗り越えて禍々しい集団が駆け下りてくるのではないかとイヤな想像ばかりが広がったのを覚えています。

 
そこを出発して未舗装道路を抜けても、背後から追いすがられているような気分はなかなか消えません。高速道路の上をさらにだいぶ長い間走り続けました。ふと、進行方向の稜線の向こうの空がかすかなオレンジ色に染まっているような気がしました。錯覚ではないかと思うほどかすかなものでしたが、それから数時間が経つうちには色見もくっきりしはじめました。しまいには、なんとなく『未知との遭遇』(78)のラストシーンを思い出すほどのあかりになりました。

 
やがて道にはゆるやかな勾配がつき始め、気がつくと街の縁を乗り越え、下り坂がはじまっていました。まるで小型機に乗ってひかりの湖の上に下降していくような風景でした。しみじみと、ようやく文明世界に辿りついたという気分になったものです。それがラス・ヴェガスでした。街というのは、なによりもあかりのかたまりなのだと、改めて実感しました。

 

そういえば『未知との遭遇』でも、宇宙人たちの乗り物やかれらの存在は、ひかりのかたまりとして表現されていました。UFOとの遭遇は照射されるひかり、終盤に姿をあらわす有名な母船は巨大なひかりの玉です。宇宙人たちはひかりの中から出てきて、宇宙人に導かれた人類はひかりの中に入っていきます。この映画におけるひかりとは、人類をはるかに超えた高度な知性そのものでした。その意味では、希望そのものだったということもできるでしょう。

 

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一条のひかりによって、生き残っていた船員たちのほとんどが、救命艇に乗り移ることに成功します。しかし、その時点で救命艇の定員ははるかにオーバーしていたのです

「希望のひかり」というのは、日常生活の感覚とつながった、いちばんわかりやすい映画表現のひとつということになるのではないでしょうか。たとえば、『ザ・ブリザード』というディズニー配給の新作映画があります。強烈なブリザードの中で遭難したタンカーの乗組員たちが、危険をかえりみず出港した一隻の救命艇によって救われたという、1952年に実際におこった事件が語られます。ファミリー向けのウェルメイドな作品を作り続けているこの会社ならではの、すみずみまで教科書通りでしっかり構成された、安心して見ていられる娯楽映画です。そしてその骨格は、この映画の物語とテーマにふさわしく、ひかり/あかりを軸に組み上げられています。

 
映画は、夜道を行く車の中から見た風景で幕を開けます。ぽつりぽつりと立つ街灯がひかりの傘を下ろしていて、その間を前進するわけですが、その景色にはどこか不安が感じられます。しばらくすると、それは恋人になるかもしれない女性とはじめて会おうとしている主人公の落ち着かない気持ちに同期していたのだということを、観客は理解します。夜道に一軒のダイナーが明るく浮き上がり、彼女はその中にいます。そこにいるとわかっていても、「このシャツでよかったのかな」などと主人公はグズグズします。

 

ルールにはひたすら生真面目、でもルールのないところでは優柔不断な主人公。若手の沿岸警備隊員である彼が、過酷な環境の中でルールを逸脱した決断をたったひとりで重ねることで、自らを含めて大勢の命を救うまでに成長するというのが、この映画の物語です。そして、その主人公バーニー・ウェバー(クリス・パイン)を牽引するのは、もちろんあかりです。
 

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タンカーの内部で繰り広げられる、ひかりと闇の戦い。浸水が進み、あかりが消えるだけでなく排水ポンプも停まり、船はたちまち海水にのみ込まれてしまう状況に陥ります

ポイントは、当初はコンパスと探照灯というあかりに導かれて前進していたバーニーの救命艇も、あるところまで行ったところでそれらを両方とも失い、勘だけに頼っていちかばちか闇の中を突き進まざるをえなくなるというところでしょう。バーニーたちはそのとき、文字通り死の世界を通り抜けるのです。

 

かろうじて、死の側、つまり闇の中に閉ざされていたタンカーの甲板から一条のひかりが発せられ、それが救命艇を捕捉します。それによって、どうにかこうにか生き残っていた船員たちのほとんどが、救命艇に乗り移ることに成功するのです。ただし、その時点で救命艇の定員ははるかにオーバーしています。

 
タンカーの内部でも、冷静沈着というよりほとんどこの世に未練がないようにも見える一等機関士レイモンド・シーバート(ケイシー・アフレック)の先導のもと、ひかりと闇の戦いが繰り広げられていました。浸水が進み発電機が水に沈むと、あかりが消えるだけでなく排水ポンプも停まり、船はたちまち海水にのみ込まれてしまうという状態になっていたのです。

 
さて、救命艇のうえですし詰めになった男たちは、もう一度死の世界、すなわち闇の中に飛びこむことになります。コンパスが失われている以上、海岸に辿り着くのもいちかばちかの賭けでしかありません。しかも、海岸線一帯の町もまたブリザードのために停電し、あかりはひとつもないのです。その絶望的な状況下、主人公のくだすほとんど無根拠な決断に、30人以上の男たちが命を預けます。

 
その彼らがどのようにしてひかりを見いだすのかということについては、たぶんみなさんの想像とおりというよりも、願いのとおりだと思います。それでも、そのひかりがスクリーンの反射光として実際に両眼に射し込むとき、わたしたちは主人公たちとおなじくらいに深い安堵のため息をつくことになるでしょう。わたしたちは主人公たちと共に、文字通り命そのもののあかりによって救われるのですから。

 
 
 

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■『ザ・ブリザード』
2月27日(土) 全国ロードショー
配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン
(C) Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.

 
 

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