ディスプレイから消えた村上春樹ーー 写真で切り取る72億分の1のヒトコマ
2015.07.31
世界に72億人が住んでいれば、その人の数だけ、人生というストーリーが溢れています。72億分の1の人生のほんのヒトコマを、スマホカメラで切り取った息づかい溢れる写真と共にお届けします。
白金高輪ーー高級そうな印象をうけるこのエリアの中だが、情緒あふれる寺町でもある。あかりは、数年前までそこに住んでいた。音楽ライターとしての取材のため、久しぶりにこの地を訪れたのだった。
72億分の1人。
この世界のどこかにいる「あかり」の、ある暑い夏の日の、ほんのヒトコマ。
地下鉄の出口から見える懐かしい風景に、あかりは、なんだか、ホッとした。
取材まであと1時間。あかりの足は迷わず、住宅街にひっそりと佇む喫茶店に向かっていた。
あかりにとってその場所は、喫茶店というよりも駆け込み寺だった。家での作業が煮つまるたび、パソコン片手に財布と家の鍵を握りしめて店に籠もり、マスターから1番遠い窓際の席で、パソコンと向き合い閉店時間まで原稿執筆に没頭する。マスターが嫌いなわけではなく、Wi-Fiが入りづらいという現実的な問題があったということは、ここだけの話。
窓際の席には大きなランプがひとつ。そして村上春樹の小説の、あるページが、ずっと開かれた状態でディスプレイとして飾られていた。開いてあるページは仕事のかたわら何度も読んだが、前後のページはただの1度も読んだことはなかった。
今は小説の代わりに洋書が置かれた窓辺を見ながら、そんな思い出に浸っている。
冷たい飲み物は年に2、3回ほどしか飲まないあかりだが、この日は28℃を越える真夏日。さすがのあかりも迷うことなく、フランス語で夏の風を意味する「de l’été vent」と名付けられたティーソーダを頼んだ。
美容や健康に気を使い、体を冷やさないようにしている、というのではなく、ただお腹が弱いという現実的な問題である。
マスターのこだわりはあらゆる場所にちりばめられているのだが、このティーソーダもまた、そのひとつ。氷が溶けても味が変わらぬように、紅茶でつくられた氷が入っている。新鮮なオレンジをしぼると、ほとばしる香りが一瞬暑さを忘れさせる。
喉も潤ったところで、あかりはいつも頼んでいたお決まりのメニューをオーダーした。
「サンドイッチと、1番スタンダードな珈琲を」
当時、独り暮らしをしていた(今も変わらず独り暮らしなのだが)あかりにとって、安定した味と、落ち着いた雰囲気を持つこのお店は、あたたかくてホッとする、家よりも家らしい場所だった。
サンドイッチをほおばりながら、村上春樹の小説の行方がどうしても気になるあかりは、珈琲片手にマスターに尋ねた。
「ふるくなったから、奥にしまったよ」
駆け出しの頃の思い出は、心の中にあれば十分だと、そう自分に言い聞かせるあかりであった。
How to:
いつも手にしているスマホカメラで撮影する時の、ちょっとした工夫ひとつで、切り取った思い出は驚くほど息づかい溢れるワン・シーンに。カメラマンほそみえりが、その秘密を少しずつ教えます。

Tips1: コーヒー、サンドイッチ、本の中から主役を決め、主役以外は画面からあえて、はみ出させる。そうすることで主役がより引き立つ空間となる。となると、この写真の主役はもちろん、サンドイッチだ

Tips2: モノだけでなく、手の一部が入ったり、動作を感じる動きが入ることで、「空間」と「時間」を感じさせることができる。カップを持ち上げる様などは簡単に挑戦できる仕草のひとつ

Tips3: 斜め後ろから窓の光が差し込む所にグラスを置く。光の反射を利用してグラスの水滴をさらに引き立たせることで、ソーダの冷たさとオレンジのジューシーさが伝わる

Tips4: 右後ろから差し込む窓の光をコーヒーの液面に反射させる。コーヒーカップをソーサーごと少し揺らしながら撮影すると、液面に反射した光が動くことでコーヒーにも表情が出る
取材・文:細川依里