© Eri Hosomi

白金高輪ーー高級そうな印象をうけるこのエリアの中だが、情緒あふれる寺町でもある。あかりは、数年前までそこに住んでいた。音楽ライターとしての取材のため、久しぶりにこの地を訪れたのだった。

72億分の1人。
この世界のどこかにいる「あかり」の、ある暑い夏の日の、ほんのヒトコマ。

地下鉄の出口から見える懐かしい風景に、あかりは、なんだか、ホッとした。
取材まであと1時間。あかりの足は迷わず、住宅街にひっそりと佇む喫茶店に向かっていた。
あかりにとってその場所は、喫茶店というよりも駆け込み寺だった。家での作業が煮つまるたび、パソコン片手に財布と家の鍵を握りしめて店に籠もり、マスターから1番遠い窓際の席で、パソコンと向き合い閉店時間まで原稿執筆に没頭する。マスターが嫌いなわけではなく、Wi-Fiが入りづらいという現実的な問題があったということは、ここだけの話。
窓際の席には大きなランプがひとつ。そして村上春樹の小説の、あるページが、ずっと開かれた状態でディスプレイとして飾られていた。開いてあるページは仕事のかたわら何度も読んだが、前後のページはただの1度も読んだことはなかった。

今は小説の代わりに洋書が置かれた窓辺を見ながら、そんな思い出に浸っている。

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冷たい飲み物は年に2、3回ほどしか飲まないあかりだが、この日は28℃を越える真夏日。さすがのあかりも迷うことなく、フランス語で夏の風を意味する「de l’été vent」と名付けられたティーソーダを頼んだ。
美容や健康に気を使い、体を冷やさないようにしている、というのではなく、ただお腹が弱いという現実的な問題である。

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© Eri Hosomi

マスターのこだわりはあらゆる場所にちりばめられているのだが、このティーソーダもまた、そのひとつ。氷が溶けても味が変わらぬように、紅茶でつくられた氷が入っている。新鮮なオレンジをしぼると、ほとばしる香りが一瞬暑さを忘れさせる。
喉も潤ったところで、あかりはいつも頼んでいたお決まりのメニューをオーダーした。
「サンドイッチと、1番スタンダードな珈琲を」
当時、独り暮らしをしていた(今も変わらず独り暮らしなのだが)あかりにとって、安定した味と、落ち着いた雰囲気を持つこのお店は、あたたかくてホッとする、家よりも家らしい場所だった。

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© Eri Hosomi

サンドイッチをほおばりながら、村上春樹の小説の行方がどうしても気になるあかりは、珈琲片手にマスターに尋ねた。
「ふるくなったから、奥にしまったよ」
駆け出しの頃の思い出は、心の中にあれば十分だと、そう自分に言い聞かせるあかりであった。

How to:

いつも手にしているスマホカメラで撮影する時の、ちょっとした工夫ひとつで、切り取った思い出は驚くほど息づかい溢れるワン・シーンに。カメラマンほそみえりが、その秘密を少しずつ教えます。

 

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Tips1: コーヒー、サンドイッチ、本の中から主役を決め、主役以外は画面からあえて、はみ出させる。そうすることで主役がより引き立つ空間となる。となると、この写真の主役はもちろん、サンドイッチだ

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Tips2: モノだけでなく、手の一部が入ったり、動作を感じる動きが入ることで、「空間」と「時間」を感じさせることができる。カップを持ち上げる様などは簡単に挑戦できる仕草のひとつ

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Tips3: 斜め後ろから窓の光が差し込む所にグラスを置く。光の反射を利用してグラスの水滴をさらに引き立たせることで、ソーダの冷たさとオレンジのジューシーさが伝わる

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Tips4: 右後ろから差し込む窓の光をコーヒーの液面に反射させる。コーヒーカップをソーサーごと少し揺らしながら撮影すると、液面に反射した光が動くことでコーヒーにも表情が出る

取材・文:細川依里