© kmiragaya - Fotolia.com

欲望で見えなかったものが、別れの時に見えてくる。

 僕はいつも、出会いのときに見つけていたはずのものを、別れのときに見出す。
 
 それが他人に対する悲しい諦めの形をとるとしたら、未練があり、別れのときは未だ先である。この人はこうだったんだなぁと自分から切り離されたところで静かに認められたのなら、それは別れのときだと思う。関心がないように装うことは簡単だ。自分自身に、相手に対してまだ引っかかるものはないだろうかと問いかけて、その相手に対して静かな優しい目を向けられたなら、別れのときをうまく迎えられたのだと思う。
 
 別れのときには、出会ったときに気になっていたことが、よりクリアになって思い出されてくる。別れのときに見出すそれは、付き合ってきた月日の中で感じられたものによって、積み重ねられた意味を伴いながら思い出される。それは過剰な人当たりの良さや明るい笑顔、或いは、表情の翳りなど、出会ったときには仄かに気になっていたが、重要視しなかったことであることが多い。
 
 はじめの付き合いの中では多くのものに目が瞑れてしまう。相手に対する欲望があるからだ。しかし、はじめにあった欲望も薄らいでいくと、重要視していなかったことが徐々に明るみに出されていく。
 
 上手に好きになるとは、自分の欲望を除いたときに残る、相手のちょっとした動きを堪能することなのではないかと思う。
 
 例えば、ある女性を好きになったのは、彼女のメイクによって大きく見えた瞳のせいかもしれない。彼女の体の曲線を強調していた服かもしれない。その瞳の大きさや体の曲線が、自分が欲望していた数多くの女性たちを象徴していたのだ。しかし、次第に時間が経つごとに、彼女の瞳や体の曲線のありがたみは消えていく。

 

散り散りになっていく声と、彼女の瞳、体の曲線、肉体のイメージ。

 はじめから、仄かに感じていたものもあった。
 
 彼女の声のトーンの高さが気になっていた。金属音のように響く音。その音は、彼女の気持ちが僕には向けられていないことを示していた。彼女の声はいつも、僕ではなく、どこか別の場所に向けて発射されて、僕に届く前に散っていた。声が散り散りになっていくのにも構わず、僕は彼女の瞳を見つめ、また体の曲線を見つめ、さらにはその後訪れる彼女との肉体の接触のイメージに没頭していた。それらは僕の表層的な欲望と強く結びついていたために、散り散りになっていく声の存在を隠してしまっていたのだ。
 
 反対に、別れのときには、彼女の瞳や体は見ていなかった。ただ散り散りになっていく声の音のみに、静かに耳を傾けていた。その音は、はじめのときと同じように、僕には届けられていなかった。彼女とすれ違うことは予知されていたというよりも、はじめからそうだった。しかし、僕はそれを自ら隠しながら、誤魔化しながら、日々を過ごしていたのだ。
 

別れてから、過ごした時間を想像の中で体験し直す。蔑ろにした過去が教えてくれる。

 反対に、別れのときから時間を経て、思い出す声の中に、自ら求めていたものを見出すこともある。その空中に散り散りになった声を、僕は拾おうとしていなかったのだ。散っていく一つ一つの声に耳を澄ませていれば、僕は彼女の声をちゃんと聞くことができたかもしれない。
 
 自分がなぜその聞くべきものを聞けなかったのか。それは注意深く彼女の発するものを捉えようとしていなかったからだろう。また自分の欲を満たすものを手にいれることに意識が向いていたために、落ち着いて彼女と接する時間を堪能できていなかったからだろう。
 
 あるいは、瞳の中にだって、僕は何かを見出したかもしれない。その瞳を大きく見せた錯視のためのメイクには何もなくとも、その瞳をじっと見つめていれば、彼女がそのときに表面には示していなかった感情を読み取ることができたかもしれない。
 
 こうして、蔑ろにしていた過去の瞬間は教えてくれる。自分が見るべきもの、聞くべきもの、触れるべきもの。そしてそれらを通して、彼女に対して、感じられるはずのものがあったのだと。
 
 過去の瞬間に、より深い集中をもって留まることができれば、瞬間の中で自分がより細かく認識できるものが見えてくる。同じ映画を何度も見るように、自分の過ごした時間を想像の中で何度も体験し直すことで、その度に新しい発見をすることができるのだ。
 
 もし、それをしなければ…きっとまた僕は同じような注意深さでしか、新たに出会う人のことも見ることができないだろう。
 

幸福な関係性とはなにか。時間の濃度と毎日の過ごし方。

 人にはそれぞれ、自分がしていることを認識できる速度がある。出来事が終わったあと、かなり時間が経ったあとでしか自分がしていることを省みられない人もいれば、自分がある行動をしようとしたとき、その行動に問題があると気がついて、すぐに別の方法へと切り替えられる人もいる。その速度が自分よりも速い人たちを前にすると、彼らは同じ時間を過ごしていたとしても、僕よりも濃度の高い時間を過ごしているような感じがする。彼らの時間はだらだらと過ぎ去らず、一時的に時が止まるように彼らの周りに留まり、彼らは自らの行動をその場で省みることが出来るように見える。
 
 そういう時間の中では、多くのものが省みられる。そうではない時間の中では多くのものが気づかぬうちに過ぎ去っていき、過ぎ去った出来事はまた戻ってくる。しかし、本人は過ぎ去ったことに気がついていないから、また同じことを新しいことのように体験してしまう。
 

parting-m1

 他人がその繰り返しの世界の中に入ってしまったとき、僕はその世界から距離をとる。そうしなければ、僕もまた同じ世界の中に閉じ込められてしまう。同様に、僕がまたその繰り返しの中に閉じ込められているように見られたとき、人は遠ざかっていくように思う。
 
 一人の人間の生活には大したバリエーションはない。しかし、同じように過ごす毎日をより別のものにしたいとも思う。時間の濃度が高まるごとに、毎日の過ごし方は少しずつ変わっていく。
 
 自分のしたことを思い返せば、自分がいつもどんな繰り返しをしてしまっているのかが見つかるだろう。それは他人から見れば一目瞭然で、指摘をされたことはあったものかもしれない。それを自分で、過去の瞬間の中から見つけたときに、世界を見ている自分の解像度が上がる。
 
 しかし、気を抜けば、人は自分に不満を感じたとき、未知の刺激的な体験の方へと進もうとする。それらは新しい体験を与えてくれるかもしれないが、その中で自分がとる行動は既に過去の中でも行っているだろう。未知の体験は、同じ時間の中に自ら新しい認識を見出したり、行動を生み出したときに訪れる。
 

 
 幸福な関係性とは、同じ速度で自分自身の時間の濃度を高めようとする中にあるのではないかと僕は思う。
 
 そして、その速度が一致せずに過去に別れた人が、また新たにその人の速度を手に入れていることを見るのも幸福である。そのときに、その人が新たな速度を手に入れ、時間の濃度を高めることを邪魔してしまっていたのだと知る。