図 1. 最も古いダニの化石.Protacarus crani Hirst.スコットランドのライニー(Rhynie)のデボン紀の地層から見つかっている(Hirst S., 1923. On some arachnid remains from the Old Red Sandstone (Rhynie Chert Bed, Aberdeenshire). Ann. Mag. Nat. Hist., 12: 455-474.)

ダニと暮らす私たち

 「ダニと暮らす」
 
 なんて素敵な言葉なのかと、ダニ学者の立場では思う。喫茶店で強めにローストされたコーヒーを飲みながら、ダニの進化を考えているときに思いついた。
 
 ふつうの人は多分、そうは思わないだろう。
 
 僕たちはダニに囲まれて過ごしている。陸上の動物でもっとも種数が多いのは、昆虫類の約100万種である。ついでダニ類が約5万5千種、次にクモ類が約4万5千種とされている。しかしこれは名前が付けられたものだけの数である。ダニは名前のつけられていないものが多いので、なかには、実際の種数は昆虫に負けないくらいに多いのだと言うダニ学者もいる。
 
 このうち、日本にいて名前のついているダニは約2千種。人の血を吸うマダニは約20種とすると1%程度にしかならない。この1%程度の悪いダニのために、残りの善良なダニ達は大変に迷惑しているということになる。
 

ササラダニ

図2. 森の落ち葉の下に生息するササラダニ。本種はマイコダニの一種。背毛がうちわのように広がって幾重にも折り重なっていて、まるで舞子さんみたいにみえる。 Pterochthonius sp. 側面図。背毛がうちわのように広がっている(写真提供:Günther Krisper博士)。

 しかし本当にそうか? そこで人間と関係のあるダニのリストを作ってみた。種ではなく、そのダニが含まれるグループごと、科のレベルで見積もった。それでも、農業の被害、感染症の原因、その他人間に被害を及ぼすダニは、どう多く見積もっても20%を超えない。つまり80%のダニは、人間とは全く関係のない生活を送っているのだ。
 
 ダニは熱帯はもちろん、南極大陸から北極圏まで、地球上のあらゆる場所に生息している。ダニは陸上で進化したので、陸上にはことのほか種類が多い。森、街路樹の土、ロンドンの石畳の隙間のゴミの中。淡水の湖沼。40度の温泉、地下水にも生息している。高い山から海岸まで、ありとあらゆるとことにダニはいる。世界で一番深い海から見つかったダニは、日本近海の伊豆沖の7000 mの深海から記録されている。
 
 我々に身近なのは、家のなかのダニだろう。人間の皮膚やフケははがれ落ちる。一週間で25g以上になるらしい。これは仕方がないことだ。しかしこれらを餌とするダニは、我々がどれだけ部屋をきれいにしても、おそらく完全にいなくなることはない。他にもニキビダニ(世間では「顔ダニ」と言うが、それは正しくない)は、若いときでも20-30%、40歳を過ぎると70%以上の人の顔に生息するらしい。とはいえ人間の場合、ニキビダニは皮膚炎の原因にはならない。ご安心を。
 
 かつてフランスのテレビ番組は言った。「月に最初に降り立った宇宙飛行士と一緒に、初めて月に降り立った節足動物はダニかもしれない」。
 
 なるほどあり得ない話ではない、と僕は思う。
 

新型の高級掃除機のゴミにダニをさがす

 先日、友人が新型の高級掃除機を買って、とても嬉しがっていた。そこで友人が部屋を入念に掃除した初物のゴミから、どのくらいのダニがとれているのか、顕微鏡で観察してみることにした。彼が高いお金を払って買った掃除機でめいっぱい吸いとった、そのゴミを送ってもらったのである。
 
 新型の掃除機は実に良くゴミを吸い取っていた。しかしながら、掃除をあまりしていなかったというソファーのゴミからは、ダニがほとんど見つからなかった。友人は大変にガッカリしていた。でも、そんなものなのだ。
 
 君と僕がくつろいでいるその部屋に、ダニはそれほどいるわけではない。人が思うほど、ダニは身の回りにウジャウジャいるわけではないのだ。しかし人が思わぬところにダニがたくさんいたりする(たとえば、ダシが入ったお好み焼き粉などは、冷蔵庫に入れた方が良い)。
 
 結局のところ、一般の人は気にしすぎないのが一番だと思う。どこにダニがいるかなど、ダニ学者にしか分からない。

図3.乾燥ニンニクにわいたコナダニ類

図3.乾燥ニンニクにわいたコナダニ類

 

「目に見えないいきもの」の恐怖

 告白しよう。実を言うと、かくいう僕も潔癖性なのである。他人が履くスリッパが苦手なのだ。他人の履くスリッパを共用するくらいなら、靴下で生活したい。海外便の飛行機に乗ると、アイマスクと新しい靴下をくれる航空会社があった。新しい靴下を履いてくれとは、なんて粋なサービスかと思ったら、靴を脱いでこの靴下を履いて、機内でリラックスしてくださいということらしい。気に入ったが、今のところ、その航空会社には再び乗れていない。残念だ。
 
 スリッパがなぜダメなのかと言うと、他人のつけてきた微生物がそこにいると思うからダメなのだ。「目に見えないいきもの」がそこにいる「恐怖」。これは、ダニ学者の僕もよく理解できることである。
 
 仙台から東京に引っ越して、大きな違いは、東京にはゴキブリが多いということだった。ある日、単身赴任の賃貸アパートで原稿を一人で書いていた。その部屋の中に突然ゴキブリがでた。恥ずかしながら絶叫した。
 
 学生といるときには、熱帯のゴキブリを手づかみするのだが、不意打ちは困る。自分の部屋で、一人気ままに時間を過ごしているはずだった。それがじつは、赤の他人が同じ部屋のなかで、同居生活をしていた……というのと同じくらいにビックリした。そこから、室内のムシの「恐怖」が理解できたのである。その賃貸からは間もなく引っ越した。ゴキブリの恐怖が理由ではないが……。
 
 考えてみると、恐怖には二通りあるのかもしれない。「たくさんいる」怖さと、「いないと思っているのに突然出くわす」怖さだ。
 

八味唐辛子

 海岸の桟橋で、美しい海を見ている。遠く太平洋の向こうに思いを馳せ、時に、クジラが見えるのではないかと大海原を眺めている。太陽は照りつけるが、その暑さを忘れるような海の青だ。波は静かに繰り返している。時間を忘れて佇む。
 ふと、足下の桟橋の裏側をみた。そこには、無数のフナムシが、ビッシリといる。こちらの気配を察して、ザザザーっと、いっせいに物陰に隠れる。こちらは鳥肌がたって、若干パニックになる。これが、「たくさんいる」恐怖だ。
 
 見た感じは汚いけれども、美味しい店というのが流行っているらしい。それっぽい店を見つけて入ってみる。餃子を注文する。運ばれてくるのを待ちながら、餃子のタレをつくって、最後に七味唐辛子をいれる。するとなぜか、タレの表面で七味唐辛子が動き出す。
 
 「目に見えないいきもの」が「目に見えるいきもの」になった瞬間だ。
 
 ダニとの出会いに僕は嬉しくなるが、ふつうの人は嬉しくない。そこには、「いないと思っているのに突然出くわす」怖さと、餃子のタレの表面で、ウジャウジャ動く「たくさんいる」恐怖が混在している。
 
 僕たちダニ学者は嬉しくて、ダニの湧いた七味唐辛子を八味唐辛子と言っておもしろがったりする。しかし七味唐辛子に湧いたダニは、それほど数が多いわけではないとはいえ、やはり、健康面から考えると避けた方がよいだろう。
 

嫌われるダニと生物多様性、そして人間の「本能」

 人につく害虫と言えば、蚊、ノミ、ダニだ。
 
 蚊は夏の風物詩として、蚊取り線香とともに、なにか憎めない部分がある。ノミは困る人は困るが、どこかユーモラスだ。ノミのサーカスなどをヨーロッパで見たことがあるが、小さなよく出来た紙細工のメリーゴーランドをノミがまわしたりするのには、笑みさえでる。
 

ダニで熟成するチーズ、ミルベンケーゼ

図4.ダニで熟成するチーズ、ミルベンケーゼ。周囲にこぼれているのは,チーズを熟成するコナダニたち。ドイツ、ライプツィヒの近くアルテンブルガー地方にて。

 僕がダニのことを書いていると、嫌われ者のダニをおもしろがる人もでて来た。ダニもよく知れば、なかなか面白いらしい。だが一般的には、ダニと言ったらまず、しつこく血を吸うマダニだ。食いついたら離れない。ホクロかと思っていたら、ダニだった。まさに、「いないと思っているのに突然出くわす」怖さ。テレビの番組で強調されるのは、布団やジュウタンの中にウジャウジャと蠢く、「たくさんいる」恐怖。ダニはどうやっても、嫌われ者だろう。ダニ学者としては、蚊やノミのような、どことなく風情ある害虫たちに、嫉妬さえ感じてしまう。
 
 しかしながら、一部の本当に悪い奴らのために、全体が憎まれるというこのことは、実は人間そのものを物語っているのではないだろうか。
 
 昆虫記を書いたファーブルは、昆虫が「本能」と言うものによってのみ行動すること、そして「本能」というものを作り出した自然の素晴らしさや、その緻密さへの驚きを語った(ただし「本能」という用語は、現在、専門的にはほとんど用いられない)。しかし最近になって僕は、ファーブルは実は、人間自身の本能について語りたかったのではないかと思うようになった。
 
 他人が嫌うからと言って、その対象を自分が盲目的に嫌うだろうか。自分の意見とはなにか。自然のもつ多様性を受け入れることは、全く違う価値観の他人を自分が受け入れることに繋がらないだろうか。生物多様性の視点からは、嫌われ者のムシも美しい動物も、生態系のひとつとして、全て受け入れなければならない。そう書いてみて、生物多様性や生態系を考えることは、人と人の人間関係を照らし出す問題のような気がしてきた。
 
 「たくさんいる」怖さと、「いないと思っているのに突然出くわす」怖さ。ダニは遥か昔、恐竜が地上にあらわれるよりもずっと以前、4億年前に地球上に現れた。ダニがこの地球上に出現したのは、発見されたもっとも古いダニ化石から、少なくとも古生代のデボン紀(4億年前〜約3億8千万年前)ではないかと推察されている。長い進化の歴史の中で、たくさんの生き物達からみれば、人間こそが、「たくさんいる」怖さと、「いないと思っているのに突然出くわす(地球上に現れた)」怖さを持つものかもしれない。
 
 この問題はもう少し考えなくちゃならないな、とコーヒーカップを置いた。そろそろ、喫茶店を出ることにしよう。
 最後に、布団やジュウタンの中にウジャウジャと蠢くダニはテレビの撮影のためであって、そんな状態は一般家庭ではなかなかない光景なのだと書いておこう。少しでも読者が安心できるように。
 
 
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