2015年10月、イギリスのキャメロン首相がいくつかの官公庁が新卒の職員を採用する際に、応募者の名前を採用者に隠すという取り組みを始めると発表しました。同時期に、いくつかのイギリスの大学でも入学希望者の名前を隠して入学試験を行う方向で合意したことが発表され、今年からエクスター大学、リバプール大学、ハダースフィールド大学、ウィンチェスター大学でトライアルが開始されるそうです。
 
入学希望者を匿名にする目的は、受験生の名前や性別が、人種、宗教、その他の「属性」を想起させ、試験官にバイアスがかかってしまう「可能性」を排除することにあります。しかし、入試に面接を併用している大学もあり、名前を隠しても、面接官が面談すれば、容姿や性別、人種、言葉の特徴などが分かってしまうため、実際の「無記名入試」実現には、まだまだ解決すべき課題があるようです。
 
少し話が逸れますが、「バイアス」に関連して紹介したい映画があります。世界的に愛されるウォールト・ディズニー・アニメーション・スタジオが2016年に公開した「ズートピア」です。「動物たちの”楽園”を描くディズニー・アニメーション!」という触れ込みですが、人や事柄を予め特定の型に当てはめてしまうことの弊害を、暗に示唆するような描写が含まれています。センシティブな問題でもあるので、アニメーションのような親しみやすい表現方法を使ったアプローチは有効かもしれません。
 

 
既成観念によって型にはめてしまう紋切り型をステレオタイプと言いますが、すべての対象を虚心坦懐に澄んだ目でひとつひとつ見つめ、個別に解釈して記憶するのは「効率的ではない」ので、人は対象を型にはめてしまいます。「犬は吠える生き物」で「猫はきまぐれ」かどうかを逐一確かめるまでもなく、たいていの人は犬や猫はこういうものだという先入観を持っていて、日常生活を「楽」に過ごしています。
 
共通認識のためのステレオタイプ化によって、例えば「男らしい」「子供らしい」といった曖昧な言葉が意図するイメージも何となく伝わりますし、アフリカ系アメリカ人の人々は音楽やスポーツが得意に違いなく、魚を食べれば健康になり、芸能事務所に逆らうと大変なことになると予め知っていることになります。「XXX女子」「YYメン」といった言い方にも、背景には先入観が色濃く入っているはずです。あの国の人は金の亡者だとか無作法だとか、2桁の掛け算を暗記しているだとか……。他にも「あの宗教の人は乱暴だとか排他的」「あの県の人は我慢強い」「あの手の人はすぐ離婚する」「A型は真面目でO型は大らか」などなど。テレビもネットも書籍も雑誌も日常の話題も、カテゴリー分けして、属性を貼り付けることに腐心し続けているようです。
 
ただし、それが悪いことかと言われると、そう言い切ってしまうことは少々乱暴に思えます。出会うものすべてに多様性があることを前提にして対応するのは大変ですし、わたしたちが対象をラベリングするのは、外界を整理して理解や判断の時間と労力を省くためには多少なりとも必要なことだからです。しかし、行きすぎたステレオタイプ化が引き起こす事態は、「区別」を越えた「差別」につながる可能性があるのもまた事実です。
 
私も実際、多くの先入観、偏見でがんじがらめになっています。既成観念を補強する情報は心地よく、”せっかくの偏見”を覆す情報は、できれば無視できる程度の雑音であってほしいと思ってしまいます。映画「ハード・プレイ」(1992年)の原題は”White Men Can’t Jump“(白人は跳べない)ですが、バスケットボール選手は、白人選手よりも黒人選手の方がジャンプ力があってくれた方が心は平穏かも知れません(この映画は、偏見や先入観とは無関係で、好きな映画です。念のため)。
 
 
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